林檎に牙を:全5種類
「好きな女の子、出来ちゃった。」


吹き出したりはしなかったものの、一瞬で凍った喉。
咀嚼していた物も氷塊に変わってしまって呑み込むには苦労した。
夕食のテーブル、此処には二人きり。
驚こうが訝しもうが応えるのは遼二しか居ないのだ。

そう告白したのは、他ならぬ彼の母親。



両親の離婚により、母の実家の紅玉街に移り住んでから随分と経つ。
人間とは慣れる生き物である。
生まれてから10数年も共にしてきた苗字も既に思い出だけの物。
もう「早未」と名乗る事に違和感は無し。

生きる事は変わり続ける事。

人の心は恐ろしいほど不確かだと遼二は思う。
会社に通っていた筈の父は知らない間に辞めていて、愛人の所へ通っていた。
あれ以来、余程の事では驚くまいと誓っていたのだが。


慰謝料を貰ったとしても、当時、中学生だった息子を抱え込んでしまった身。
アルコールに弱い母はビール一缶でとても陽気になった。
人生が変わった点は同じ、寧ろ遼二以上。
酔ってしまいたい時が増えたと云うならよく解かる。
週末には必ず呑むようになったが、溺れる程でもないので好きにさせていた。

軽くなった口許は何を零すやら解からない。
そうして繰り返して来た食卓に、空気を変える事すら易々と。

母は歯科医、資格があれば職場が変わっても働ける。
元から早未家では其の筋なので当てもあるし。
違う環境になれば出逢いも。
其処で親しくなった若い女医に、特別な感情が芽生えたのだと云う。

「小さくて細くてー、笑うとこっちまで和んじゃって!」
「そうですか。」

ビール片手、恋の話に現を抜かす。
顔が赤いのも今日は酔いの所為だけじゃないらしい。

変わらぬ若々しさを保っている訳でも、並外れて美しい訳でもない。
最低限の化粧に、シンプルな服装も年相応。
何処にでも居そうな40代女性。
けれど、緩んだ表情の母は愛だの恋だの声を高くする。


「どうにかなりたい訳じゃないの、ただ「好き」なの。」

独身なのだし、別に片想いだけなら自由だと遼二は思うが。

ゆっくり箸を進めながら話は半分ほど聞き流される。
どうせ、こんな姿も夜だけの物。




昨夜、遼二を驚愕させた食卓に目玉焼きとトーストが並ぶ。
晴れの日でも西向きの居間はあまり眩しくない。
変わらない平穏な朝が来た。

「……おはようございます。」
「おはよう……、バイトはあるんでしょう、早く食べなさい。」

もう母からアルコールの匂いなど残っていない。
柔らかい癖毛をきっちり纏め、無表情に近い伏せ気味の眼。
あまり抑揚の無い口調もいつも通り。
涼しい面差しは、確かに遼二にも遺伝している物。


酔っ払いは無責任。

呑んでいる間の母は別人、ことごとく何も覚えていない。
其のお陰で、昔からトラブルなんて幾つ起きたやら数え切れず。
離婚前はあまり口にしていなかった理由は其処。
酔っている時の事も現実には違いないのだ。

来年には遼二も堂々と飲酒出来る年齢。
もう既に隠れて味を覚えて記憶も保っているが、羽目を外す事は危険。
ただでさえ母に似ているのだ、油断は禁物である。



「漫画貸してもらっちゃった!お礼何が良いと思う?」
「学校の実習で作ったお菓子ならありますけど……、山ほど。」
「えっ、でも手作りって気持ちが重いとか思われちゃうかも……」
「息子が製菓専門で、て隠さず言えば良いじゃないですか。」

些細な事で嬉しくなったり、心配になったり。
片想いは忙しいものである。

遼二も覚えがあるだけに、ぞんざいにも出来ない。
こうして家に居る週末の夜は母の恋愛話に付き合ってばかり。
友達や恋人との予定が無い時だけ。


そうやって確実な足取りで過ぎて行く、ある日。


バイトの無い放課後は時間の使い方に迷う事がある。
鞄を肩に掛け直して揺られる電車。
さて此の後どうしようか、考えながらの遼二は背中を丸めた。
惰眠に浸ればすぐ過ぎてしまう。
仕事で遅い母の為に凝った夕飯でも作ってやっても良いけれど。

何もする事が無い、とは言い切れなかった。
遼二の手元にはハガキが一枚。

歯石取りの案内は数ヶ月に一度。
母の勤める歯科医なのだし、わざわざ郵便で出す必要も無いのに。
機械で自動的に作成される物とは云えどマメな事だ。


そして、此れは若しかして。
例の"片想いの君"を拝める絶好の機会ではないだろうか。


そう気付いてから、一日中そればかり思考巡回。
今朝届いたハガキを何度も眺めているものだから端が歪んできた。
名前に特徴、その点は散々聞かされたのだ。
不在かもしれないが、顔を見れば多分判ってしまう。

歯科医は駅に近い、東口から歩いて行ける距離。
もう改札を出たら分かれ道。
漸く腹を決めた遼二が、確かな手で定期を取り出した。



ちょっとした作業をするには腰掛けられる場所が欲しい。
今日が晴れていて良かった、と夕陽に眼を細めてベンチから立ち上がる。
個人情報が多い物を外で捨てる時は注意が必要。
細切れに引き裂かれ、大きく口を開くゴミ箱の上に舞い落ちた。

花吹雪を思わせる、ハガキの紙片。
遼二が多少妙な行動をしたって、西口から街へ散っていく人々は気に留めず。


あれは母だけの恋だ、無闇に侵すべき物ではない。


歯科医を替えなくてはいけないのは面倒だが。
何て言い訳するべきか、あれこれ考えながらの帰路。
スニーカーの足は決して重くなかった。


こうなった事は良かったんじゃないかと思う。
寧ろ納得したと云うべきか。
いつか素面の母とも向かい合わねばならない時が来るのだ。
その時の強みになってくれるだろう。

遼二も彼氏が居る事は、それまで胸の中。


*end



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2013.02.09