林檎に牙を:全5種類
少し暑いくらいのコーヒーショップを後にすると、温度差の所為か軽い眩暈。
意識が溶けそうな浮遊感は身体から現実味を奪う。
コートとバッグを片腕に抱えていては凭れる場所も無い。
駅の雑踏を歩く紬は、ただ一人きり。


あれから後のちょっとした諍いは、まるで安っぽい物語。
店内の客はそんな目で紬達を見ていた。
感情をぶつける演技を楽しんで、途中で呑み込んだ笑い声。

そうして適当な理由をつけて席を立ってみせた、よくある展開。
様子がおかしい紬に彼はただ困惑していた。
一応は止めようとしたようだが、頭に血が上っている状態。
「勝手にしろ」の言葉だって筋書き通り。

どうせ今日会う友人達だって、彼の紹介で知り合った面々。
紬が居なくたって別に問題あるまい。


本当に、此処は"何処"なのだろうか。
夢の中を彷徨っているような感覚に捕われて、うまく歩けない。


舞台を降りて駅の外へ抜ければ、強い風に迎えられる。
ネオンの散らばる街はもうすぐ強い光を持つ。
少し冷えてコートを羽織ると、細い銀色が指に引っ掛かった。
首筋に纏わり付くネックレス。
今はただ邪魔でしかなくて、うざったい仕草そのまま外す。

自由になったら、随分と軽くなった足取り。
これから何処へだって行ける。
先程までずっと考えていたのは、ただ一人の事。

シロに会いたかった。

不意に恋しくて堪らなくなった、真っ直ぐで大きな瞳。
短い毛並みの手触りと懐かしい匂い。
自分だけに向けられる「好き」が聞きたい。


『会いに行く』

居酒屋のビルはもう間近。
メールは一言、バイト中なので携帯など見ている間など無いだろうけど。

こう云う時、素直に甘える言葉を紬は知らない。
散々ペット扱いしてきたものだから。
きっと今頃、シロも泣いて主人の帰りを待っている。


送って間も無く、着信メロディが手の中から流れ出す。

ああ、でも、シロには此れで充分だったか。
尻尾を振って寄って来るのも早い、流石の忠誠ぶり。
会えたら、今日はもう少し優しくしてあげよう。
それくらいのご褒美は必要だろう。

逸る指で開いたメールボックス。
画面のライトで白く浮かんだのは、強張った紬の表情。


『次の宛先へのメッセージはエラーのため送信できませんでした。

送信先メールアドレスが見付からないか
送信先メールサーバーの事由により送信できませんでした。
メールアドレスをご確認の上、再送信ください。』


アドレスが変わった?
そんな事、全然聞いてない。

言葉は届かない。


人で溢れそうな駅前広場、藍色の空に三日月が尖る。
暖かくなるにつれて太陽が足を緩めていても、夜は必ず訪れるもの。
途方に暮れて、行き場を失った紬を置き去りにしたまま。




「連絡しなくてごめんね紬、あたしは此処に居るよ。」

なーんだ、そっか。

檻の中で笑うシロは何一つ変わらず。
鉄格子越し、やっと紬も安堵の表情で息を吐いた。

でも、どうしてそんな所に居るんだろう?


気が付かなければ良かった。
もう少しだけ其処に居られたかもしれなかったのに。

眼を開けたら、カーテンが月を閉ざす真っ暗闇。
何の事はない自分の部屋。
携帯で時間を見て、紬は相変わらず一人きり。

眠りとは自我に目隠しする事。

一見すれば幸福に思えても、別の視点からすれば危うい行為。
心地良く夢を貪る間も現実は足を進めている。
すっかり忘れていたのだ、いつか覚めてしまうものだと。

あれは、ただの幻。


専門学校の2年生はもう既に卒業済み。
就職が決まった為、居酒屋は辞めて何処かへ引っ越した。
その日のうちに初めて知った、シロの事。

気付けば長い時間が経ってしまっていたようだ。

ずっと餌を与えず、放ったらかしにしていた犬。
もう死んでしまったのかもしれない。

何年も一緒に居たシロは自分のものだったのに。
離れたって大丈夫だと思っていた。
泣かせてしまった事もあったけど、変わらず付いて来たのに。
それこそ冷たくあしらっても意地悪しても。


彼が居なければこんな事にならなかった?
いや、そもそも。
紬が惹かれていたのは、好きだったのは……

意図的な思考停止で今まで目を瞑って見ないようにしていた事。
本当は、どんな男だって関係なかった。
シロと仲が良かったから。
紬が彼に手を伸ばしたのは、ペットを奪われる事を恐れていただけ。

そして、関係を明かさないまま目の前でキスしたのは。
わざと酷い事をして哀しむ顔が見たかった。
シロが紬だけのものなのだと、証が欲しかっただけ。

ずっと欲望のまま振舞ってきたのだ。
あの時も「これくらい」としか認識していかなかった。


遠い雑音を呑み込んでしまう深い夜。
痛い程の静寂に身を置いていると狂いそうになる。
呼吸も侭ならない息苦しさにもがいた指先が、携帯に届いた。
思わず縋り付いて通話に望みを掛ける。

発信履歴に並ぶシロの名前。
何度も鳴らしたけど、全て留守電の冷たい音声だった。
番号が変わってないなら声だけでも。


永遠のように続く呼び出し音が、不意に途切れる。

「……はい。」
「シロ……っ!」

繋がった。

馴染み深い呼び名が、愛しさを込めて震える。
良かった、まだ生きていた。

此処まで弱味を晒したのは初めてかもしれない。
一度涙腺が決壊すれば、後は泣き声にしかならなかった。
言いたい事なんて幾らでもあるのに。

ごめんなさい、寂しかった、何処に居るの。
もう素直になるから、大事にするから。

子供だった頃みたいに戻って。


「あたしの名前はいずみだよ、"シロ"じゃない。」

涙にも心の動かない声。
受話器から真っ直ぐ耳に突き刺さった。


「ずっとそれだけ言いたかったの……、最後だから。」

通話を切られると、もう此の番号はただの数字の羅列。
強い眩暈が頭の中をぐらり揺らす。
色も熱も痛みも失う感覚に、脆くなった身体が倒れ込んだ。


外してからずっとポケットで眠っていたガラス玉のネックレス。
今度は紬自らの手で、その"首輪"を嵌めた。


眠っていた歳月はお姫様の大事な物を全て殺す程の長さ。

目が覚めたお姫様は、やっと独りきりだと云う事実に気付きました。
自分を守ってきた無数の棘。
抜かれてしまったら、どうしていいのか分からない。

もう、王子様に縋って生きていくしかなかったのだ。


*end

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2013.03.23