林檎に牙を:全5種類
桜桃の幼い思い出。
小さい本丸と人が良すぎる渡の昔話。
緑に覆われた此の地では、基本的に食料には困らない。
自給自足を原則に田畑を持つ家は数多かった。
米も野菜も事欠かず、温泉地帯でもある為に流れる水も豊富。
四季により様々な大地の実り。
長年変わらず行き渡る潤いに、人々は感謝する。


なのだが、滅多に手に入らない物も確かにあった。


春先には両手で収まる程度の量で千円近く。
あれから比べれば幾分落ちたものの、やはり値段は張った。

普段、財布の紐は固い方。
八百屋で暫し迷ってみてから渡は緩める決心を固めた。
まぁ、此の量で見れば安い方だろう。
旬の物だし年に一度くらい、と理由を付けて。
神社で待っている可愛い子の為。



「渡、お帰りっ!」

高音の出迎えで、黒に絡まった小さな銀。
胸元の柔らかい衝撃は渡にとって慣れ過ぎた物。

冷たく儚げな、子供ながら整った顔立ちと銀の毛並み。
けれど薄い吊り眼は笑うと酷く懐こい。
月の化身の筈でも、日向が似合う幼くあどけない色で。

同じ狐の耳と尾でも、渡の方は闇に近い漆黒。
ただいま、と返して本丸の髪を撫でた。
抱き上げたいところなのだが今日は手が塞がっている。
丁度良い、見せるのなら今か。

「ほら、お土産。」

提げた袋を差し出されて本丸の眼が輝いた。
開いて覗き込めば、揺れていた尻尾が千切れそうな程の動き。
語彙の少ない子供には口より雄弁に喜びを語る。
しかし、此れでは狐ではなく仔犬か。
思わず小さく笑って、渡も中身を一粒摘み上げてみせた。

果汁を閉じ込めて張り詰めた赤。
長い柄の先で実った、桜桃が袋に一山。


「此処らで作ってる家って少ないからね、珍しいだろ?」
「うん、でも桜の木なんてそこら中あるのになー。」

変なの、と呟く本丸を座らせて、二人分の赤をガラスの器に盛った。
流水に通した桜桃は光を増す。
透明な雫が儚く揺れて、瞬きの間に一筋滑り落ちる。

夕食の席で出す前に、自分達だけ少しばかり摘んでも良いだろう。
買って来たのは渡なのだから文句は言われまい。
別に内緒と云う訳でもないが。
何せ、此の神社には食べる事に至って底無しの氷雨が居るのだ。
強請られたら丸ごと消えてしまう。
駄目だと言えない渡も、相当甘い事は自覚済み。


「甘いっ!」

ぼんやり考えていたところだったので、本丸にまで言われたのかと思った。
勿論、実際は叱責などでなく桜桃の事。
小さな口一杯に甘さを噛み締め、


「渡?サクランボ嫌い?」
「あ……いや、アタシも食べるよ?」
「じゃ、はいっ!」
「ん、食べさせてくれんの?」

妙な照れ臭さは多少あるものの、子供相手なのだから無用か。
本丸が握った柄の先で揺れる小さな実。
差し出された桜桃を、渡は口腔に引き込んで噛み潰した。

傷付いた薄い皮が弾けて、瑞々しく甘酸っぱい味。
余計な物の無い美味しさ。
缶詰のふやけた味でなく生の桜桃など本当に久しぶり。
素直に笑みの形になった唇に、もう一つ、と本丸が桜桃を触れさせた。



「はい、俺は良いから渡もっと食べて!」
「…………」


……断り難い。

器の中身は既に半分を切ったところ。
本丸による、渡への餌付けの真似事はまだ続いていた。
種を吐き出す間も無く、別の粒を突き付けられる。

ただでさえ咀嚼に忙しい口は無言。
なるべく穏便に降参を告げたいのだが、隙が無い。

次々に与える小さい手は飽くまでも親切心。
しかし、何しろ加減を知らないものだから仇に変わる。
加えて悪気の無い子供なら尚更。
本丸からすれば、渡が食べてくれる方が嬉しいのだろう。
其処は良い子に育ったと思う、が。


「も、良いよ本丸、本当にありがと……」

危うく桜桃で溺れるかと思った。
種を喉に詰まらせそうになって、やっと白旗。




普段沈んでいた記憶も、ふとした時に浮かび上がる。
過ぎた時間の作る優しい色で。
戻れないからこそ、なんて、”今”を後悔している訳ではないけど。

「あれ……渡、買うの?サクランボって高いんだぞ?」
「知ってるさ。」

手に取ってみた桜桃が蘇らせた、遠い日の赤。
二人並んだ八百屋の店先。
もう、見上げなければ話も出来やしない。

確かにいつも一緒だったのに、少年はいつ青年へ羽化を遂げたのだろう。
長い銀髪に、引き締める筋肉が形作る細い身体。
あの時の子供はやはり美しく育った。
変化の無い自分を軽々と追い越して、此処に居る。


買い物を済ませると重い荷物を受け取ったのは本丸。
そうして空いた片方で、桜桃を置いた渡の手を取った。
子供と保護者ではなく恋人同士として。

こんな未来など全く想像していなかった。
年月の中で意味を変えてしまっても、大切な存在。

幼い頃から明度の変わらぬ笑みで、不意に思い出した桜桃の味。
むず痒い感覚が小さく走って指先を握り返した。
骨張った手に包まれて、また、歩き出す。
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2010.04.14