林檎に牙を:全5種類
夕方から騒がしかった雨も雷も、いつの間にやら過ぎ去っていた。
桃子が寝床で目を覚ました頃には静寂の中。
夜は悠々と漆黒で包まれて、あるべき筈の顔を取り戻した後だった。

ただ、いつも通りなんて言ってしまうには乱雑すぎるかもしれない。
無数に散らばる星の粒を従えて、大きく膨らんだ満月。
マンションのベランダからは夜空が広い。
街の濁りがすっかり嵐で洗われて、昨日よりも輝いて見える。

月に誘われたとでも云うべきか。
ブランケットから抜け出した素足が、音も無く床に着地した。


ガラスを越えてベランダに出てみれば風一陣。
ロングTシャツだけでは肌寒く、パーカーを羽織ってきて正解。
胸まで伸びた髪は寝癖だらけ。
冷えた夜気に煽られて、ふわりとショールのように風と遊ぶ。

手摺に凭れ掛かると満月の夜が視界一杯に。
梅雨前で天気が崩れやすいが、初夏もまた天体観測するには丁度良い季節。
もう既に日付が変わり、週末とは云えども優雅な夜更かし。


そうして何となく横を向いた時、初めて気付いた。

薄い仕切りに隔てられた隣のベランダ。
桃子と同じく、月見をしているもう一人の存在。


「……黄実ちゃん?」
「あれ、まだ起きてんの。」

此方の台詞、と言い掛けた口が途中で止まる。
桃子よりも一つ年上の黄実は冬に大学受験を控えた身。
県外の名門に行く為にと、今から勉強漬け。

こうしてベランダに出てきたのも息抜きの為か。
昔からの習慣なので知っている。
艶々のセミショートがよく似合う、凛と冴えた横顔。
隣に住む幼馴染は相変わらず格好良い。


言葉を交わさずとも決して居心地の悪くない距離。
夜は穏やかで麗しく、一人きりで眺めるなんて勿体無い。
何もしない時間は緩やかに過ぎていく。

けれどやはり少しだけ物足りず、それは気持ちだけでなく。
寝床で過ごしている間は断食状態。
眠気が去ってしまうと、活動を再開した身体は空腹に気付いた。
このまま朝食までなんて待てやしない。

「夜食でもどうかな?」

何か無いかと考えてみれば、桃子が行き着くのは冷蔵庫の中。
黄実の返事も待たずに駆け出した。


真っ暗で湿った台所、冷蔵庫を開くと明かりが差し込む。
寂しい空間だからこそタッパーは宝箱に見える。
そっと取り出すと、小皿に載せたらフォークも添えて。

「落とさないでね。」
「落とさないってば。」

お互い仕切りに寄り添って、注意深く伸ばした腕。
手摺を越えて空中で皿の受け渡し。
物を貸し借りする時、ベランダ越しが一番気軽な方法。


手の平サイズの小さなタルトに、缶詰でお馴染みの黄桃。
杏ジャムが塗られて艶々とした山を成す。
丁度誂えたように二人分あった「夜食」の正体はピーチタルト。
こんな時間に甘い物なんて、と思いつつも喉が鳴る。

ケーキ屋のガラスケースに並んでいた物ではない。
桃子の姉は製菓専門学校生。
よく実習の品々を持ち帰るので、今も冷蔵庫の一角を占めている程。

「でも、勝手に食べちゃって良いの?」
「……大丈夫だよ。」
「その間は何よ、あたしも共犯にする気か。」
「平気平気、お姉ちゃんどうせ存在忘れてそうだし。」

断り無くとも、減ったところですぐには気付くまい。
ただでさえ生菓子は足が早いのだ。
叱られる事を恐れていたら、放っておかれたまま傷んでしまう。


フォークを構えれば、いざ山を崩す時。
蜜を含んだ瑞々しい桃に、バニラビーンズが香るカスタード。
さっくりとしたタルト生地が受け止める。
果実とクリームで一杯になった口は紅茶が欲しくなっても、思うだけ。

こんなに美味しくても貪る気分にはなれない。
我慢の利かない空腹だった筈なのに、手が巧く動かないのだ。

月があまりに綺麗で、静かで、ぼんやりしてしまう。
何だか夢の中に居るみたいだ。
齧ったタルトの甘味が辛うじて意識を繋げる。


「月を食べてるみたいね、何だか。」

黄実の声が覚醒を促した。
リアリストの彼女にしては意外な台詞。

「どうしたの、随分可愛い事言うね。」
「別に……、疲れてんのかも。」

からかったり笑ったりなどするものか。
そもそも「意外」と思う事の方が間違いだったのかもしれない。
黄実のそんな一面を今まで知らなかっただけで。

そうだとすれば、ずっと隣に居たのに気付くのが遅い。
希望の大学に合格したら離れ離れになるのだ。
また季節が巡って次の夏、此処で月を見るのは桃子一人。
感傷に浸ってしまうのは此方も同じだ、黄実の事を言えやしない。


昔から満月は人を狂わせると云う。
聞き飽きた言葉を思い出したのは、それに縋りたいから。
クリームを絡めて、甘ったるい月の欠片を呑み込んだ。


*end



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2014.06.01