林檎に牙を:全5種類
蝉の鳴き声をラブソングに例えたのは誰だったろう。
独り身の夏、耳を塞ぐ者には苛立ちが増すだけなのに。


夏の空を柔らかくする雲は何処へ行ってしまったのか。
見上げれば薄い青が広がる午後、降り注ぐのは強い太陽だけでなかった。
蒸し暑い空気を震わせる鳴き声。
騒々しい蝉時雨に打たれながら、すぐりは先を急いでいた。

水なら傘で防げても大音量は頭の芯まで響いてくる。
鬱陶しさも限界近くなり、思わずすぐりの方も叫んでしまいそうだ。
尤も、高校生になってまでそんな子供染みた真似はしないが。


最寄り駅から徒歩10分、目的地のマンションが遠く感じる。
もうすぐビル影に差し掛かるので何とか我慢。
電車の中だけでも快適なのだし、自転車で向かった方が安上がりでも今日は良い。
こんな陽気ではミニスカートの尻がサドルで火傷してしまう。

結んでも黒髪は重く熱くなり、頭から溶け出しそうだった。
折角お洒落してきたのにこれでは意味が無い。
滴ってきた汗を拭って指先も濡れる。

ハンドタオルを取り出すのも面倒で舐め取ったら、海の味。
すぐりの意識が一瞬だけ水の底に落ちた。

海水浴なんて足が遠退いてしまって既に数年。
進学した高校にはプールすら無いので、すっかり懐かしい思い出のみ。
泳げなくても良い、いっそ水族館でも。
喧騒を呑み込む深い青が恋しくて堪らなかった。




「外暑かったでしょー、凄い汗だけど大丈夫?」
「あ、はい、すみません……、先生に言われると何か恥ずかしい……」

マンションで迎えてくれた汐乃が振舞ったのは、お茶でなく棒アイス。
このくらいの気軽さで丁度良いのだ。
照れ隠しでソーダに齧り付くと、冷気が口腔をきゅっと引き締める。


少し寝不足と伺える眼に、何も塗らずとも甘い色の唇。
気怠げにしている様が何処か艶っぽい。
まだ子供の自覚があるすぐりからすれば、10歳年上の汐乃は緊張する。
オリーブにカラーリングされた髪がよく似合っていた。

しかし、暫く美容院に行けておらず伸ばし放題。
暗い色なので自然に見えるが、根元にかけて黒に戻ってしまっていた。
そうして長い髪を纏う細身も大抵汚れても良い恰好。

少女漫画誌で活躍する先生の一人が、姉の友人と知った時は驚いたものだ。
趣味でも漫画が描けるすぐりからすれば師匠。
アシスタントのバイトとして彼女の家に通って数ヶ月、今に至る。
お小遣いに加えて技術が磨けるので貴重な経験。


現在の少女漫画は月刊誌しか存在しない。
それでも汐乃も時間に余裕があると言えず、家に籠る方が長い日々。
事実、あまり紫外線を浴びておらず仄白いままの顔。
一方で意外と骨張って細い指先は、年中インクの黒がこびり付く。
アナログ画法に拘っているからこその勲章。

連載だって抱えているのに、今度の仕事は他所で読み切りも一つ。
デビューからずっと学園が舞台の作品だったのに。
同じ出版社でもファンタジーのレーベルなので、汐乃には新境地。

早速ペン入れ段階まで終わっている紙の束を手渡される。
しかし、肝心の内容は今まで秘密だったのですぐりが知るのは初めて。

「あれ、このヒロインって……人魚姫ですか?」
「そうそう、一からオリジナルだと難易度高いからねー。童話を元に、て指示で。」

表紙を飾る少女は、魚の下半身をしなやかに。

地上に憧れる人魚の少女が人間と恋に落ちる。
男は鱗を目にしても恐れず、種族の違いなど気にしなかった。
海と陸、隔たりはあれども甘い日々。

愛が深まればこそ添い遂げたいと云う少女の願いも強く。
そうして禁忌を犯し、海の魔女に掛け合って人間になる薬を貰い受ける。
やはり声が代償になったものの原作と違って相愛になった後。
何も障害など無いと、男の下へ。

しかし、海から上がった少女を男は受け入れる事が無かった。
彼が愛していたのは飽くまでも"人魚"だったのだ。
二本足になった途端に彼女から興味が失せ、やがて姿を消してしまう。

鱗も声も失い、恋に破れ、残された少女は茫然自失。
人魚の涙は真珠になるが、どんなに泣いても雫が落ちるだけ。


「やっぱり悲恋なんですね、人魚って…………」

そこまで目を通した辺りで、紙を捲るすぐりの手が止まって一言。
まだ中盤にも関わらず苦い展開。
コメディ要素が強い普段の作品とは明らかに毛色が違う。
見慣れた絵柄で繰り広げられる悲劇が、静かに重い衝撃を与えてくる。

それも作者からすれば想定内か。
オリーブの毛先を弄って、汐乃が涼しく付け加える。

「異形の姿だからこそ愛していた、てのもアリだと思うけどね私。」
「うーん……、そんなもんでしょうかね。」
「ありのーままのー、だよ!」
「いや、確かに流行ってますけども。」

語る汐乃がいきなり歌まで口ずさむ。
寝不足でテンションが高ぶっているのではないだろうか。
その積み重ねが命取りなので、すぐりからすれば心配になってしまう。

かと思えば、落ち着いた様子で汐乃の唇が綻ぶ。
大人びていても笑みは愛らしい。

「大丈夫、ちゃんとハッピーエンドになるから。」


すぐりが怖々と再び読み進めると、後半は言葉の通りだった。
此の先に描かれているのは、口を閉ざしながらも強く生きようとする少女。
恋が実れば人間として生きられる。
そして其の相手とは、何も彼でなくたって良いのだ。

「声が無くても恋は生まれるか、が本当のテーマなんだ。」
「そうですね……、重要なツールですよ、確かに。」

不意に耳の奥、道中で焼き付いた蝉の声が蘇る。
あれだって雌を誘う為の物。
何もしないままでは何も始まらないのだ。

他ならぬすぐり当人にだって、身に覚えはあった。


「って事で今回も宜しくね、すぐりちゃん。」

すぐり一人だけに捧げられる微笑みも声も、柔らかで幼い色。
胸の中、小さな果実が弾けた錯覚。

少し風変わりな自分の名前はあまり好きでなかったのに。
汐乃に呼ばれれば、こうも甘い。
インク染めの指先で描かれる世界観だけでなく、すぐりを溺れさせる。

嗚呼、此の声が欲しくて、愛しくて。


*end



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2014.07.12