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浅い夢は蛙の声で消え去った。
寝静まった田舎道には夏の風物詩がよく響き渡る。
窓には視線もくれず、シーツに寝そべったまま公晴はただ聴いていた。
部屋は目を閉じても開けても真っ暗闇。
時計も読めないが、もう日付は変わっている頃だろう。
この頃は湿気で息苦しくて、眠りが浅くなりやすい。
普段なら寝つきが良い方の公晴もゆっくりと起き上がった。
何か冷たい物が欲しいところ。
面倒に思いつつも、忍び足で目指すは台所。
カーテンの閉め切った部屋と違い、廊下の窓からは眩しい月。
暗さに慣れた目を凝らし、手摺を握りながら一段ずつ階段を降りる。
丑三つ時の庄子家は灯りが残らず消えて、多少の物音では誰も起きやしない。
一家の稼ぎ頭、祖父が規則正しい生活を送る主義の為。
「寝る間を惜しんでも良い作品は書けない」と荒井新月は語る。
物書きは徹夜とばかり世間で思われがちなので、驚かれたものだった。
故に、まさか台所に先客が居たなんて心臓が止まりかけた。
流し台の蛍光灯で浮かび上がった人影一つ。
「……え、来てたの?何してんの、叔父さん。」
ホラー映画の1シーンじゃあるまいし、脅かさないでほしい。
散々見慣れた筈でも、自分が体験するとなるとまた違う。
ああ云うものはエンターテイメントだからこそ楽しいのである。
決して自分が怪物に襲われたい願望がある訳ではない。
影の正体とは、明かされてみれば拍子抜け。
端正な細面に切れ長の目はクールビューティーと云った風貌である。
背丈はそれほど高くないにしても締まった身体つき。
母と年が離れた30代だが、黒髪も肌も艶やかで実際より若々しく見えた。
この色男が祖父の息子だと云うのだから不思議である。
茶系の癖っ毛にどんぐり目なだけ、公晴の方がよほど似ているのに。
隣街で一人暮らしをしている叔父で、名は肇。
公晴が生まれた頃はまだ高校生だったので一緒に住んでいた時期もある。
自立心が高く、海外へも行っていたが数年前に帰って来た。
今は専門学校でフランス語の講師をしていた筈。
「ちょ、無言のまんまだと怖いよ、叔父さんてば……」
「素敵なお兄様と呼んでくれないか。」
それは、愛読しているホラー漫画の有名な台詞だった。
キャラクターを真似た肇は口端だけで笑う。
肇が独り立ちで実家を出る際、本棚一杯に残したホラー漫画の数々。
大御所の代表作から隠れた名作まで。
中にはやたらと古めかしい物もあり、不気味さが増していた。
絵本と一緒にそんな漫画ばかり捲って育ったのだ。
公晴が怪談好きなのは叔父の仕業。
それより、相変わらず質問には答えてくれない。
見れば分かるとでも言いたげ。
流し台の前に立つ肇は桃を持っている。
ちょうど剥くところに邪魔したらしい、そう云えば好物だったか。
丸々した薄紅色を見ていたら、公晴も喉が渇いていたのを思い出した。
身体に残る水分が唾になって溢れてくる感覚。
「桃良いなー、オレも食べたい。」
「冷蔵庫にもう一つある。」
欲しければもう一つ剥けと突き放す返事。
そう、分けてくれる訳が無いのだ、よく知っている。
公晴の分があるだけまだ良いと思わなければ。
桃はよく熟れていて、掌にひんやりとした重み。
生え揃った産毛の感触は丸まって眠る生き物を思わせる。
そう云えば生の桃なんてあまり触れる機会が無かったかもしれない。
柔らかすぎるので下手な力では崩れそうだ。
いつも食卓に上る時は既に切り分けられた状態、もしくは缶詰。
ただでさえ旬が短いので口にするのもいつ以来か。
こうなると、肇の真似をするより他に手は無し。
長い指が桃を弄ぶ様を黙って見る。
爪を立てた程度では破れないのでナイフの出番。
縦の溝に沿って浅く刃を滑らせて、ぐるりと一周する。
切り込みに溢れる甘い汁。
そこから皮を捲れば、真っ白な身が剥き出しになった。
「ベッドで服を脱がせるみたいだろう?」
肇が零したのは睦言にも似た低音。
思いがけない台詞に、公晴の持つナイフが危うく指に掠めてしまった。
何を言い出すのだろう、この人は。
「セクハラ」と口答えするのも蒸し返すようで躊躇われる。
同じ親戚でも酒飲みの中年男性なら笑い飛ばして終わりだったろう。
小奇麗な肇が相手だと、一時の冗談でも妙に色気を持つ。
甘い香りを漂わせながら滴り落ちる桃の蜜。
夜に沈んだ家の中、雫の音すら聴こえそうな錯覚をもたらした。
そうして飢えた吐息一つ、肇が桃に歯を立て始めた。
貪られる蜜の音は幻でなく今度は確かに響く。
あんな事を言われた後だ。
まるで情交の一幕を見ているようで、何だか落ち着かない。
その所為で出遅れてしまったが、公晴も桃に口づけた。
瑞々しい甘さが唇を濡らして喉が鳴る。
たちまち同じように溺れてしまったのは言うまでも無し。
暑さで渇いていた身体に沁み込む蜜。
獰猛なまでに柔らかな果肉を齧り、舌を這わせて味わう。
口も指もべたつきながら、それでも止まらない。
それこそ種一つになるまで夢中になった。
以来、桃を見るたび公晴はあの夜の出来事を思い出す。
舌先に蘇る蜜で唾液が湧いてくる。
今となっては夢だったのではないかと曖昧だけれど。
翌朝には肇の姿など無く、家族の誰もが来訪を知らなかったのだ。
そもそもあんな時間に居た事自体が奇妙。
実家なのだから好き勝手に振舞っていても問題ない、確かに。
それにしたって、忍び込んで桃を盗み食いするなど意味が分からない。
「あのさ、叔父さん……いや、やっぱ何でもないや。」
「何だ、言いたい事ははっきりしろ。」
本人に問い質せば真実は明らかになる。
後日顔を合わせた時に言い掛けたが、やはり途中で止めた。
訝る肇には笑って誤魔化す事にして。
不思議な事は解明しないままの方が素敵じゃないだろうか。
それは公晴が怪談を愛するのと同じ理由で。
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寝静まった田舎道には夏の風物詩がよく響き渡る。
窓には視線もくれず、シーツに寝そべったまま公晴はただ聴いていた。
部屋は目を閉じても開けても真っ暗闇。
時計も読めないが、もう日付は変わっている頃だろう。
この頃は湿気で息苦しくて、眠りが浅くなりやすい。
普段なら寝つきが良い方の公晴もゆっくりと起き上がった。
何か冷たい物が欲しいところ。
面倒に思いつつも、忍び足で目指すは台所。
カーテンの閉め切った部屋と違い、廊下の窓からは眩しい月。
暗さに慣れた目を凝らし、手摺を握りながら一段ずつ階段を降りる。
丑三つ時の庄子家は灯りが残らず消えて、多少の物音では誰も起きやしない。
一家の稼ぎ頭、祖父が規則正しい生活を送る主義の為。
「寝る間を惜しんでも良い作品は書けない」と荒井新月は語る。
物書きは徹夜とばかり世間で思われがちなので、驚かれたものだった。
故に、まさか台所に先客が居たなんて心臓が止まりかけた。
流し台の蛍光灯で浮かび上がった人影一つ。
「……え、来てたの?何してんの、叔父さん。」
ホラー映画の1シーンじゃあるまいし、脅かさないでほしい。
散々見慣れた筈でも、自分が体験するとなるとまた違う。
ああ云うものはエンターテイメントだからこそ楽しいのである。
決して自分が怪物に襲われたい願望がある訳ではない。
影の正体とは、明かされてみれば拍子抜け。
端正な細面に切れ長の目はクールビューティーと云った風貌である。
背丈はそれほど高くないにしても締まった身体つき。
母と年が離れた30代だが、黒髪も肌も艶やかで実際より若々しく見えた。
この色男が祖父の息子だと云うのだから不思議である。
茶系の癖っ毛にどんぐり目なだけ、公晴の方がよほど似ているのに。
隣街で一人暮らしをしている叔父で、名は肇。
公晴が生まれた頃はまだ高校生だったので一緒に住んでいた時期もある。
自立心が高く、海外へも行っていたが数年前に帰って来た。
今は専門学校でフランス語の講師をしていた筈。
「ちょ、無言のまんまだと怖いよ、叔父さんてば……」
「素敵なお兄様と呼んでくれないか。」
それは、愛読しているホラー漫画の有名な台詞だった。
キャラクターを真似た肇は口端だけで笑う。
肇が独り立ちで実家を出る際、本棚一杯に残したホラー漫画の数々。
大御所の代表作から隠れた名作まで。
中にはやたらと古めかしい物もあり、不気味さが増していた。
絵本と一緒にそんな漫画ばかり捲って育ったのだ。
公晴が怪談好きなのは叔父の仕業。
それより、相変わらず質問には答えてくれない。
見れば分かるとでも言いたげ。
流し台の前に立つ肇は桃を持っている。
ちょうど剥くところに邪魔したらしい、そう云えば好物だったか。
丸々した薄紅色を見ていたら、公晴も喉が渇いていたのを思い出した。
身体に残る水分が唾になって溢れてくる感覚。
「桃良いなー、オレも食べたい。」
「冷蔵庫にもう一つある。」
欲しければもう一つ剥けと突き放す返事。
そう、分けてくれる訳が無いのだ、よく知っている。
公晴の分があるだけまだ良いと思わなければ。
桃はよく熟れていて、掌にひんやりとした重み。
生え揃った産毛の感触は丸まって眠る生き物を思わせる。
そう云えば生の桃なんてあまり触れる機会が無かったかもしれない。
柔らかすぎるので下手な力では崩れそうだ。
いつも食卓に上る時は既に切り分けられた状態、もしくは缶詰。
ただでさえ旬が短いので口にするのもいつ以来か。
こうなると、肇の真似をするより他に手は無し。
長い指が桃を弄ぶ様を黙って見る。
爪を立てた程度では破れないのでナイフの出番。
縦の溝に沿って浅く刃を滑らせて、ぐるりと一周する。
切り込みに溢れる甘い汁。
そこから皮を捲れば、真っ白な身が剥き出しになった。
「ベッドで服を脱がせるみたいだろう?」
肇が零したのは睦言にも似た低音。
思いがけない台詞に、公晴の持つナイフが危うく指に掠めてしまった。
何を言い出すのだろう、この人は。
「セクハラ」と口答えするのも蒸し返すようで躊躇われる。
同じ親戚でも酒飲みの中年男性なら笑い飛ばして終わりだったろう。
小奇麗な肇が相手だと、一時の冗談でも妙に色気を持つ。
甘い香りを漂わせながら滴り落ちる桃の蜜。
夜に沈んだ家の中、雫の音すら聴こえそうな錯覚をもたらした。
そうして飢えた吐息一つ、肇が桃に歯を立て始めた。
貪られる蜜の音は幻でなく今度は確かに響く。
あんな事を言われた後だ。
まるで情交の一幕を見ているようで、何だか落ち着かない。
その所為で出遅れてしまったが、公晴も桃に口づけた。
瑞々しい甘さが唇を濡らして喉が鳴る。
たちまち同じように溺れてしまったのは言うまでも無し。
暑さで渇いていた身体に沁み込む蜜。
獰猛なまでに柔らかな果肉を齧り、舌を這わせて味わう。
口も指もべたつきながら、それでも止まらない。
それこそ種一つになるまで夢中になった。
以来、桃を見るたび公晴はあの夜の出来事を思い出す。
舌先に蘇る蜜で唾液が湧いてくる。
今となっては夢だったのではないかと曖昧だけれど。
翌朝には肇の姿など無く、家族の誰もが来訪を知らなかったのだ。
そもそもあんな時間に居た事自体が奇妙。
実家なのだから好き勝手に振舞っていても問題ない、確かに。
それにしたって、忍び込んで桃を盗み食いするなど意味が分からない。
「あのさ、叔父さん……いや、やっぱ何でもないや。」
「何だ、言いたい事ははっきりしろ。」
本人に問い質せば真実は明らかになる。
後日顔を合わせた時に言い掛けたが、やはり途中で止めた。
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2017.07.20 ▲
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