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高校生になって最初の夏休みは非常に健全なものだった。
皆が遊び回って浮かれている中で、少なくとも遼二にとっては。
朝から太陽を浴びながら駅に向かい、制服に着替えての労働。
何しろ春から始めたバイトにも慣れ始めたのだ。
長時間のシフトも任されるようになり、楽しくなってきた頃。
学校の後では疲れるものだが、労働だけで一日が終わるのは気楽だった。
ガラス戸の向こう側は目に痛いほどの陽射し。
駅ビル全体はクーラーで涼しく、暑い時間帯を何食わぬ顔のまま過ごせた。
汗だくで冷たい飲み物を求めて来る客には思わず笑みも優しくなる。
今日も混雑する時間は無事に終わり、気温も緩やかに下り坂。
交代の頃を意識すると余計な力も抜ける。
それにしても、8月になって客層の年齢幅が更に広がってきたと感じる。
カフェと云うと若者向けのイメージになりがちだろう。
しかし、モノクロで落ち着いた「Miss.Mary」は人を選ばない。
駅ビルなので、ちょっとした遠出の遊びや旅行などの休憩に使われていた。
勿論、通常の駅利用者にも。
一期一会だけでなく見知った顔が混じっているもので。
無造作な癖っ毛に人形じみて整った面差し、長身の少年が一人。
「あー……いらっしゃいませ。」
「あからさまに目逸らしたね、早未ってば。」
カウンターを隔てて店員と客としての再会。
遼二の不在時は知らないが、神尾が店に来たのは初めてではないだろうか。
“健全”なんて言い表したのは、神尾と顔を合わせない事も意味していた。
何しろ遼二にとって疚しさの象徴。
ただ触れ合うだけの関係であって恋人ですらない。
休日に出掛けたりした事はあっても、飽くまで肌を知る前の話である。
不意に、あの狭い音楽準備室の匂いを思い出した。
こんなにも明るく生気の溢れた場所には似つかわしくない埃っぽさ。
「おれが来ても良いって言ったじゃない。」
「……社交辞令ですよ。」
あれはいつの会話だったか。
確か、別の遊び相手と来ても良いとは言った気がする。
その時は自分と他人のふりをしてくれとも。
この店はカウンターで注文を取ってから席に着くシステム。
いつまでも突っ立っている訳にも行かない。
無言のまま急かされて、神尾もようやくケーキと飲み物を決めた。
オーダーを厨房に伝えた遼二が溜息を吐いたのを気付いたか、どうだか。
「Miss.Mary」はシフォンケーキ専門店。
軽い口当たりで甘さ控えめなので、気楽に立ち寄れるのが売り。
夏の限定メニューはミントとシトラスの組み合わせ。
コーヒーの注がれたカップを添えて、恭しくトレイを渡した。
会計も済ませたが、接客はこれにて終了とはいかず。
注文を伺った時、遼二が溜息を吐いた本当の理由は。
「コーヒーちょうだい。」
「はいはい……」
気前が良い事にホットコーヒーは何杯でもおかわり自由。
ポットを持つ店員は巡回中に呼ばれたら、すぐさま駆けつけねばならない。
軽くなったカップに、湯気を立てながら流線型を描く黒褐色。
お坊ちゃんの神尾が相手だと執事か何かになった気分。
束の間のごっこ遊びで、思わず笑いそうになる。
涼しい店内で熱々のコーヒー自体が贅沢。
優雅な午後、そこにケーキまで付くのだから言う事はないだろう。
「あのさ早未、バイト終わるのって何時?」
質問されたのはそんな時だった。
のんびりお茶する客ばかりで空席も出来るようになってきた頃。
軽い雑談も接客のうちとみなされるので、神尾に足止めされていても問題無し。
「後でアイスでも食べないかな、と。」
「別に良いですけど、僕まだ終わらないから待ちますよ?」
「別に良いよ、おれも。」
「ああ、そうですか……まぁ、コーヒーでも飲んでて下さい。」
曖昧に濁したり、断ったりも手。
実際、神尾の来訪自体をあまり歓迎していなかったのだ。
誘いを受けてしまったのは諦念と云うか。
此方の本心を分かっているのかは知らないが、神尾は一つ頷いた。
そうしてすぐさま鞄を漁り、藍色の背表紙を取り出す。
例の手帳に遼二との約束を加える為。
そんな僅かな時間で忘れる訳でもあるまいに、思わず訝る目になってしまう。
目の前で開かれても、遼二は中身をなるべく見ないようにしていた。
遊び相手との予定やルールが書き込まれているのだ。
魔女の鍋を覗き込むようなもので、そんな恐ろしい事は出来るものか。
尤も、鍋の具材に数えられる遼二が言えた立場でないが。
神尾が誰と肌を重ねていたって知った事でもなく。
「書き留める必要なんてあります?」
「あるよ。何て言うかな、おれは人と約束するのが好きだから。」
その返答も思わぬものだった。
「約束を交わした時点でその人が特別になって、秘密みたいになる感覚が良い。」
こうやって神尾はよく思いがけない事を口にする。
「分かる」とも「何だそれは」とも言い返せなくなってしまう。
そこまで自由に振舞えない遼二からすれば、やはり別の生き物なのだと。
「約束って守らなきゃ意味が無いですけど。」
「そうだねぇ、だから早未も忘れずに来てよ。」
皮肉のつもりが、打ち返されて釘を刺された。
待たせる身になるのは遼二なのだから仕方ないのだけれども。
好きで待つくせに偉そうな。
神尾の席を離れたら、また仕事の顔に戻って給仕に精を出す。
この制服を脱ぎ捨てるまでは。
早いところ片付けてタイムカードを切らねば。
植え付けられてしまった感情も、アイスと一緒に溶けますように。
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皆が遊び回って浮かれている中で、少なくとも遼二にとっては。
朝から太陽を浴びながら駅に向かい、制服に着替えての労働。
何しろ春から始めたバイトにも慣れ始めたのだ。
長時間のシフトも任されるようになり、楽しくなってきた頃。
学校の後では疲れるものだが、労働だけで一日が終わるのは気楽だった。
ガラス戸の向こう側は目に痛いほどの陽射し。
駅ビル全体はクーラーで涼しく、暑い時間帯を何食わぬ顔のまま過ごせた。
汗だくで冷たい飲み物を求めて来る客には思わず笑みも優しくなる。
今日も混雑する時間は無事に終わり、気温も緩やかに下り坂。
交代の頃を意識すると余計な力も抜ける。
それにしても、8月になって客層の年齢幅が更に広がってきたと感じる。
カフェと云うと若者向けのイメージになりがちだろう。
しかし、モノクロで落ち着いた「Miss.Mary」は人を選ばない。
駅ビルなので、ちょっとした遠出の遊びや旅行などの休憩に使われていた。
勿論、通常の駅利用者にも。
一期一会だけでなく見知った顔が混じっているもので。
無造作な癖っ毛に人形じみて整った面差し、長身の少年が一人。
「あー……いらっしゃいませ。」
「あからさまに目逸らしたね、早未ってば。」
カウンターを隔てて店員と客としての再会。
遼二の不在時は知らないが、神尾が店に来たのは初めてではないだろうか。
“健全”なんて言い表したのは、神尾と顔を合わせない事も意味していた。
何しろ遼二にとって疚しさの象徴。
ただ触れ合うだけの関係であって恋人ですらない。
休日に出掛けたりした事はあっても、飽くまで肌を知る前の話である。
不意に、あの狭い音楽準備室の匂いを思い出した。
こんなにも明るく生気の溢れた場所には似つかわしくない埃っぽさ。
「おれが来ても良いって言ったじゃない。」
「……社交辞令ですよ。」
あれはいつの会話だったか。
確か、別の遊び相手と来ても良いとは言った気がする。
その時は自分と他人のふりをしてくれとも。
この店はカウンターで注文を取ってから席に着くシステム。
いつまでも突っ立っている訳にも行かない。
無言のまま急かされて、神尾もようやくケーキと飲み物を決めた。
オーダーを厨房に伝えた遼二が溜息を吐いたのを気付いたか、どうだか。
「Miss.Mary」はシフォンケーキ専門店。
軽い口当たりで甘さ控えめなので、気楽に立ち寄れるのが売り。
夏の限定メニューはミントとシトラスの組み合わせ。
コーヒーの注がれたカップを添えて、恭しくトレイを渡した。
会計も済ませたが、接客はこれにて終了とはいかず。
注文を伺った時、遼二が溜息を吐いた本当の理由は。
「コーヒーちょうだい。」
「はいはい……」
気前が良い事にホットコーヒーは何杯でもおかわり自由。
ポットを持つ店員は巡回中に呼ばれたら、すぐさま駆けつけねばならない。
軽くなったカップに、湯気を立てながら流線型を描く黒褐色。
お坊ちゃんの神尾が相手だと執事か何かになった気分。
束の間のごっこ遊びで、思わず笑いそうになる。
涼しい店内で熱々のコーヒー自体が贅沢。
優雅な午後、そこにケーキまで付くのだから言う事はないだろう。
「あのさ早未、バイト終わるのって何時?」
質問されたのはそんな時だった。
のんびりお茶する客ばかりで空席も出来るようになってきた頃。
軽い雑談も接客のうちとみなされるので、神尾に足止めされていても問題無し。
「後でアイスでも食べないかな、と。」
「別に良いですけど、僕まだ終わらないから待ちますよ?」
「別に良いよ、おれも。」
「ああ、そうですか……まぁ、コーヒーでも飲んでて下さい。」
曖昧に濁したり、断ったりも手。
実際、神尾の来訪自体をあまり歓迎していなかったのだ。
誘いを受けてしまったのは諦念と云うか。
此方の本心を分かっているのかは知らないが、神尾は一つ頷いた。
そうしてすぐさま鞄を漁り、藍色の背表紙を取り出す。
例の手帳に遼二との約束を加える為。
そんな僅かな時間で忘れる訳でもあるまいに、思わず訝る目になってしまう。
目の前で開かれても、遼二は中身をなるべく見ないようにしていた。
遊び相手との予定やルールが書き込まれているのだ。
魔女の鍋を覗き込むようなもので、そんな恐ろしい事は出来るものか。
尤も、鍋の具材に数えられる遼二が言えた立場でないが。
神尾が誰と肌を重ねていたって知った事でもなく。
「書き留める必要なんてあります?」
「あるよ。何て言うかな、おれは人と約束するのが好きだから。」
その返答も思わぬものだった。
「約束を交わした時点でその人が特別になって、秘密みたいになる感覚が良い。」
こうやって神尾はよく思いがけない事を口にする。
「分かる」とも「何だそれは」とも言い返せなくなってしまう。
そこまで自由に振舞えない遼二からすれば、やはり別の生き物なのだと。
「約束って守らなきゃ意味が無いですけど。」
「そうだねぇ、だから早未も忘れずに来てよ。」
皮肉のつもりが、打ち返されて釘を刺された。
待たせる身になるのは遼二なのだから仕方ないのだけれども。
好きで待つくせに偉そうな。
神尾の席を離れたら、また仕事の顔に戻って給仕に精を出す。
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早いところ片付けてタイムカードを切らねば。
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2017.08.06 ▲
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