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昨夜から雨を降らせていた厚い雲は、予報通り翌日まで居座り続けていた。
太陽が見えないと体内時計も鈍くなってしまう。
暗い空の下、見慣れた景色はまだ半分眠って淡い灰色の朝。
まったく「雨が好き」だなんて言う人の気が知れない。
そう思いながら遥人が吐いた溜息は、湿った空気にたちまち溶けた。
雨粒から逃げるように乗り込んだ、いつものスクールバス。
緩めのスピードで進む姿は何処となく水浴びをする大型動物を思わせた。
一度腹に収まってしまえば安心。
暖房で曇る窓の向こう、どんなに強く降ろうとも気楽に眺めていられる。
しかし遥人の不機嫌はそう簡単には直るものでなかった。
よくある症状、低気圧による偏頭痛。
飲んだばかりの薬はまだ効かず、バスに揺られるうち酷くなった気さえ。
遥人が乗る頃は出発したばかりなので、座れるからまだ良いものの。
この時間のバスは到着するまでに満員状態となる。
体調を崩している時に立ち乗りは厳しい。
すぐに生徒が増えて賑やかになる、それまでは席で背中を丸めて安静に。
ちなみに普段バイクの兄も愛車を休ませて、今日ばかりは一緒の登校。
早生学園のスクールバスは制服を着ていれば乗車できるのだ。
兄弟だろうと隣り合ったりせず別々、車内の何処か。
そうして目を閉じていた時に予期せぬ事態。
停留所を一つ二つか過ぎた頃、不意に前の席から鋭く悲鳴。
何事かと思えば原因はあちらから向かってきた。
窓枠伝いにゆっくり這う蜘蛛。
なるほど女子が騒ぐ訳だ、なかなか大きめ。
正確には節足動物の蜘蛛だが、昔から虫が好きな遥人は知っていた。
ごく身近な種類であるコガネグモ。
蜂や虎に似た黒と黄の縞模様で、その派手さから警戒されやすい。
獲物を捕らえる程度なら微毒あり。
つい観察してしまうのが昔からの癖。
下手に構わなければ噛まれないし、ましてや飛び回ったりもせず。
黙ったまま目で追っていたが、それも長くは続かなかった。
ふと横からブレザーの腕が伸びてくる。
勢い良く窓を開けて、軽々と払われた蜘蛛は冷たい外へ。
「キャーキャー五月蝿いよ。」
反射的に視線を向けてみれば、呆れた声で前の席を一睨みしたところ。
腕の主は見知った人物だった。
さらさら流れる褐色の髪に切れ長の目。
遥人と同じくらい小柄で華奢な男子だが、これでも先輩。
「そこのお前もボーっとしてるなよ。蜘蛛こわくて固まってた?」
「あぁ、どうも……おはようございます。」
「えっと、名前何だっけ?」
「相変わらず人の顔覚えないですね、嵐山先輩。」
名を訊かれるのは何度目か。
やっと面識があった事自体は認識されたようだ。
毎朝の時間、此処に揃う顔触れは何となく誰もが見覚えがある。
行き先が同じ学校なのだから尚更。
ただ、言葉を交わさなければ繋がりは生まれないけれど。
嵐山は遥人の兄と知人らしく、その関係で一応ながら紹介された。
結び付きなんてそれくらい細い糸だ。
元からお互い愛想が良い訳でもないし、他に接点も無し。
バスで目が合ったら会釈する程度。
「蜘蛛なんて別に……、あぁ、いえ、何でもないです。」
「何だよ、ボソボソと。」
害は無いのだから放っておいても良かったのではないか。
そう思ったものの、やはり遥人は言葉を呑み込んだ。
このままバスの中では餌が取れないので、いずれ死んでいたか。
もしくは心無い者に潰されていたかもしれない。
先程のように騒ぐ女子も居る事だし。
外に追い出したのはむしろ優しい対処とも言える。
器用な蜘蛛は外の窓枠に張りついて、ガラス越しに腹を見せている。
大したスピードでもないので振り落とされたりもしまい。
雨の日では巣が張れないので見られないのが遥人には残念。
コガネグモの糸は強く、雨粒を纏った巣が美しいのに。
待ち望んでいても、どうせいつの間にか居なくなってしまうのだろうけど。
「何なのお前、さっきから辛気臭い顔して。」
「いえ……ただの頭痛です、雨に弱いので。」
最低限の礼儀を弁えつつも、訝る嵐山には素っ気ない返事。
表情が悪いとはよく言われるので慣れている。
今日に限っては仕方あるまい。
具合が悪い時くらい顔に出ていたって良いじゃないか。
笑みを絶やさない者の方がよっぽど胡散臭い。
どうも思考が捻くれてきた自覚。
身体の機能が正常でないと、感情もうまく動かない。
「じゃ、コレやるよ。」
余計な事を口にせぬよう、もう黙ろうと思ったのに。
再び俯きかけたところで紅色が視界に映った。
嵐山が差し出してきたのは、ミニペットの紅茶。
玉の雫が流れるくらい冷たい。
あまりにも思いがけず、遥人が戸惑ってしまったのも無理はない。
「低気圧なら偏頭痛だろ?冷やせばマシになる筈だから。」
「え……、あの、良いんですか?」
「別に、自販機で間違えて買った物だし。僕は要らないよ。」
「ありがとうございます……」
遠慮しながらも、素直に受け取ってしまった。
暖房でぼんやりしてしまう車内には心地良い冷気。
飲んでも良し、額に当てても良し。
お陰様で、薬が効くまでの間を乗り切れそうだ。
また次の停留所でバスは足を止める。
新たに雨から逃れてきた生徒を一瞥して、嵐山はそちらへ向かって行った。
彼には彼の交流があるのだ。
ドアが閉まったばかりの入り口、頭一つ高い赤味の髪が見える。
挨拶を交わして、此処から遠く離れた席に隣り合う。
今日のところはさようなら。
次に顔を合わせる時、きっとまた遥人に名前を訊くのだろう。
けれど、繋がりは消えた訳じゃない。
思わぬところで紡がれた糸。
伸びていくか、縺れるか、まだ行方は誰にも分らず。
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太陽が見えないと体内時計も鈍くなってしまう。
暗い空の下、見慣れた景色はまだ半分眠って淡い灰色の朝。
まったく「雨が好き」だなんて言う人の気が知れない。
そう思いながら遥人が吐いた溜息は、湿った空気にたちまち溶けた。
雨粒から逃げるように乗り込んだ、いつものスクールバス。
緩めのスピードで進む姿は何処となく水浴びをする大型動物を思わせた。
一度腹に収まってしまえば安心。
暖房で曇る窓の向こう、どんなに強く降ろうとも気楽に眺めていられる。
しかし遥人の不機嫌はそう簡単には直るものでなかった。
よくある症状、低気圧による偏頭痛。
飲んだばかりの薬はまだ効かず、バスに揺られるうち酷くなった気さえ。
遥人が乗る頃は出発したばかりなので、座れるからまだ良いものの。
この時間のバスは到着するまでに満員状態となる。
体調を崩している時に立ち乗りは厳しい。
すぐに生徒が増えて賑やかになる、それまでは席で背中を丸めて安静に。
ちなみに普段バイクの兄も愛車を休ませて、今日ばかりは一緒の登校。
早生学園のスクールバスは制服を着ていれば乗車できるのだ。
兄弟だろうと隣り合ったりせず別々、車内の何処か。
そうして目を閉じていた時に予期せぬ事態。
停留所を一つ二つか過ぎた頃、不意に前の席から鋭く悲鳴。
何事かと思えば原因はあちらから向かってきた。
窓枠伝いにゆっくり這う蜘蛛。
なるほど女子が騒ぐ訳だ、なかなか大きめ。
正確には節足動物の蜘蛛だが、昔から虫が好きな遥人は知っていた。
ごく身近な種類であるコガネグモ。
蜂や虎に似た黒と黄の縞模様で、その派手さから警戒されやすい。
獲物を捕らえる程度なら微毒あり。
つい観察してしまうのが昔からの癖。
下手に構わなければ噛まれないし、ましてや飛び回ったりもせず。
黙ったまま目で追っていたが、それも長くは続かなかった。
ふと横からブレザーの腕が伸びてくる。
勢い良く窓を開けて、軽々と払われた蜘蛛は冷たい外へ。
「キャーキャー五月蝿いよ。」
反射的に視線を向けてみれば、呆れた声で前の席を一睨みしたところ。
腕の主は見知った人物だった。
さらさら流れる褐色の髪に切れ長の目。
遥人と同じくらい小柄で華奢な男子だが、これでも先輩。
「そこのお前もボーっとしてるなよ。蜘蛛こわくて固まってた?」
「あぁ、どうも……おはようございます。」
「えっと、名前何だっけ?」
「相変わらず人の顔覚えないですね、嵐山先輩。」
名を訊かれるのは何度目か。
やっと面識があった事自体は認識されたようだ。
毎朝の時間、此処に揃う顔触れは何となく誰もが見覚えがある。
行き先が同じ学校なのだから尚更。
ただ、言葉を交わさなければ繋がりは生まれないけれど。
嵐山は遥人の兄と知人らしく、その関係で一応ながら紹介された。
結び付きなんてそれくらい細い糸だ。
元からお互い愛想が良い訳でもないし、他に接点も無し。
バスで目が合ったら会釈する程度。
「蜘蛛なんて別に……、あぁ、いえ、何でもないです。」
「何だよ、ボソボソと。」
害は無いのだから放っておいても良かったのではないか。
そう思ったものの、やはり遥人は言葉を呑み込んだ。
このままバスの中では餌が取れないので、いずれ死んでいたか。
もしくは心無い者に潰されていたかもしれない。
先程のように騒ぐ女子も居る事だし。
外に追い出したのはむしろ優しい対処とも言える。
器用な蜘蛛は外の窓枠に張りついて、ガラス越しに腹を見せている。
大したスピードでもないので振り落とされたりもしまい。
雨の日では巣が張れないので見られないのが遥人には残念。
コガネグモの糸は強く、雨粒を纏った巣が美しいのに。
待ち望んでいても、どうせいつの間にか居なくなってしまうのだろうけど。
「何なのお前、さっきから辛気臭い顔して。」
「いえ……ただの頭痛です、雨に弱いので。」
最低限の礼儀を弁えつつも、訝る嵐山には素っ気ない返事。
表情が悪いとはよく言われるので慣れている。
今日に限っては仕方あるまい。
具合が悪い時くらい顔に出ていたって良いじゃないか。
笑みを絶やさない者の方がよっぽど胡散臭い。
どうも思考が捻くれてきた自覚。
身体の機能が正常でないと、感情もうまく動かない。
「じゃ、コレやるよ。」
余計な事を口にせぬよう、もう黙ろうと思ったのに。
再び俯きかけたところで紅色が視界に映った。
嵐山が差し出してきたのは、ミニペットの紅茶。
玉の雫が流れるくらい冷たい。
あまりにも思いがけず、遥人が戸惑ってしまったのも無理はない。
「低気圧なら偏頭痛だろ?冷やせばマシになる筈だから。」
「え……、あの、良いんですか?」
「別に、自販機で間違えて買った物だし。僕は要らないよ。」
「ありがとうございます……」
遠慮しながらも、素直に受け取ってしまった。
暖房でぼんやりしてしまう車内には心地良い冷気。
飲んでも良し、額に当てても良し。
お陰様で、薬が効くまでの間を乗り切れそうだ。
また次の停留所でバスは足を止める。
新たに雨から逃れてきた生徒を一瞥して、嵐山はそちらへ向かって行った。
彼には彼の交流があるのだ。
ドアが閉まったばかりの入り口、頭一つ高い赤味の髪が見える。
挨拶を交わして、此処から遠く離れた席に隣り合う。
今日のところはさようなら。
次に顔を合わせる時、きっとまた遥人に名前を訊くのだろう。
けれど、繋がりは消えた訳じゃない。
思わぬところで紡がれた糸。
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2017.10.18 ▲
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