林檎に牙を:全5種類
ある時代、ある場所――



「なぁに、あの歌?」

特別に感覚が優れている、とは自分では思わない。
しかし、リンファは微か耳に届いた『其れ』の方向へと首を向けた。
その拍子、黒い髪が胸元にさらり揺れる。


「……あァ、ありゃあ歌い手の奴らだな。この寒ィのにご苦労なこった。」

此処で『この歌』が聴こえるなど、よく通る者にとっては珍しい事ではない。
薄っぺらな上着の襟を指先で直すクロスの応えが、空気に白く残った。
この時間帯は風が特に冷たい。


夕暮れも迫る、長い長い路地裏。


車は通れそうもない為、置いてきた場所に辿り着くまでは結構歩く事になる。
早く抜けたくて、凍ってしまいそうな足を汚れた靴で進み続ける今。
しかし、響いていた靴音は一つ止まる。

「……何してンだ。」
「だって、そっち行っちゃったら聴こえなくなるじゃない。」

五歩後ろの所で動かなくなってしまったリンファは、歌に耳を澄ませて涼しく言う。
其れが苛立ちを煽って、クロスの方といえば対照的な表情。

「おい……、置いて行くぞ。」
「……出来ないくせに。クロ一人だけ行っても、しょうがないでしょ?」

全て判っている上でそんな事をする。
忌々しい。
いい加減放っておけなくなったクロスが無理でも引っ張ろうとした時、

「歌ってるのって、向こうよね?」

唐突に訊いて、答えも待たずに方向転換。
ガラス玉のピアスを小さく光らせて、リンファは飛び込むように角を曲がった。


「…………仕方ねェな、」

普段は物事に拘ったりしないくせ、興味を持った事には時折貪欲になる。
そんな行動は何時だって突発的で予測は不能。
其れに付き合わされる方の身にもなってみて欲しい。
進行方向と反対へしなやかに揺れた髪に苦々しく溜息をつき、少女の後を。


急かされるような早足に、冷たい風が絡みついてくる髪は鬱陶しい。
こんな事なら結えば良かったか、と舌打ちでも悔やみでもなくぼんやり思う。
歌声と音楽が一歩一歩確かなものになり、やや広くなった場所へ出た。

其処には既に人だかりが出来ていて、歌い手達の姿は見えない。
リンファは知らぬ事だったが、さすが、此処の名物となりつつあるだけあるという事実。
前奏の聴こえる所まで近付いて足を止めた。
此処だって充分だし、人の中へ混ざるのはあまり好まない。

足取りゆらりと、遅れて到着したクロスが彼女の姿を見受けた頃、

歌は始まった。



ある時代ある場所、乱れた世の片隅
少年は生きるため、盗みを覚えていった。
醜く太った大人達などには
決して追いつけはしない風のように
今、空腹を満たすのがすべて
是も非も越え、ただ走る。

清らかな、その心は穢れもせず罪を重ねる。
天国も地獄さえも、ここよりマシなら喜んで行こう。
「人は皆平等などと、どこのペテン師のセリフだか知らないけど」

パンを抱いて逃げる途中、すれ違う行列の中の
美しい少女に目を奪われ立ちつくす。
遠い町から売られてきたのだろう。
うつむいてるその瞳には涙が。
金持ちの家を見とどけたあと
叫びながら、ただ走る。

清らかな、その身体に穢れた手が触れているのか。
少年に力はなく、少女には思想も与えられず。
「神様がいるとしたら、なぜ僕らだけ愛してくれないのか」

夕暮れを待って剣を盗んだ。
重たい剣を引きずる姿は、
風と呼ぶには悲しすぎよう
カルマの坂を登る。




「……なァ、もう行くぞ。」
「まだ終わってないわ。時間だって大丈夫な筈でしょ?」

こうまでもはっきりと言われてしまっては、次の言葉は淀んでしまう。
ラストを知っているクロスは少し、視線を落とした。


『この先』は、彼女にとってはあまりにも―――


長い間奏は緩んで、歌い手は再び物語を紡ぐ。



怒りと憎しみの切っ先をはらい、
血で濡らし辿り着いた少女はもう、
壊された魂で微笑んだ。
最後の一振りを少女に。

泣くことも忘れてた。空腹を思い出してた。
痛みなら少年もありのままを確かに感じてる
―――お話は、ここで終わり。ある時代のある場所の物語―――




「……だから言ったろう、」

終わった歌が沈黙を連れると、冷たい空気はより鋭く頬を撫で、ひりり響く。
重く開いた口、言葉は自然と苦いものを含んでいた。

「あら、それはどういう意味で?」

が、応じたリンファの方といえば口調は極軽いもの。
まるで、何故そんな事言うのか解からないというように。
それは恍けという偽りだなんて事くらい、クロスは見抜いている。


「お話がいつでもハッピーエンドで終わるなんて限らない、なんて知ってるわ。」
「けど……なァ……、リンファ、」
「……クロ、『其れ』をアンタが言う?私と何年付き合ってるのよ?」

形の良い眉を少し寄せて、不機嫌に。
もうこれ以上の押し問答など、全く無駄なものでしかないのだろう。
クロスもようやくとも言える時間で其れを悟って、頭を掻く。
そして、

此れっきりで話は終わりにするつもりで、最後の問いを。

「お前ェだったら、」
「……え?」
「お前ェだったら、どうする?」
「そう、ねー……」

ゆるやかな口調での思案は彼女の『いつも』。
それこそ、寸分の狂いなど無く。


「仕事の邪魔よ、って、追い返すわ。」


其の答えは、彼女自ら造り出した思想に基づいたもの。

クロスがよく知っているつもりの、彼女のものだ。
今感じた此れは、何に対しての安堵なのだろう?
はっきりとなんて判らないまま、冷たい空を仰いで、クロスは静かに目を閉じた。


「……そうか、」
「早く行かなきゃ……ねぇ、お客が待ってるんでしょ?」

地を踏みしめる汚れた靴。
触れる事のない距離で、また歩き出した。




行き先は金持ちの家。
其れが、彼女の仕事。

大人の穢れた欲望を満たす為に。
生きていく上の金の為に。
『少女』のような悲劇を生まない為に。


人魚の顔を持つ少女は、穢れた手に触れられて尚、強く。
ある時代、ある場所、乱れた世の片隅で。
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2012.02.03