林檎に牙を:全5種類
自分という子供は薄情だと思う。
痛い程悲しくてもお腹は空くし、身体に残った水分はもう涙にならない。

ずっとこうして抱き締めていても、腕の温度を吸い込んで冷たくなるばかり。

何処か、土の柔らかい場所と、シャベルを探してこなければ。
それは判っている、もう3度目だから。
空っぽの身体にしては重すぎるけど、引き摺ってでも行くさ。

此処に置いて行けば、戻った時には片付けられてしまっているかも知れないから。





今日も風は鋭い程に冷たく、それでも空の色も陽気も暖かかった。
すっかり重くなった雪は溶け始めて、しっとりと濡れた冬の午後は街の全てを輝かせていた。
光を浴びた純白の隙間から覗く色は、どれも鮮やかに人の眼に写る。

春はまだ遠い、2月。

そんな中、何も聞こえず静まり返った路地裏。
交じって濃くなった影の所為で、其処だけは雪は未だ積もったまま。
知らない街をうろうろしていたら人並みに押し出されるように出て来てしまった。
細い道に、子供の影がひとつ。

碧の瞳で初めての場所を一つ見回して、紐で束ねた黒い髪を揺らした。
不安や心細さなどは其処には無く、ぼんやりと。
迷った訳では、ないから。

帰る場所が何処かにあるから、人は迷うのだ。

年はせいぜい10かそこらの少女。
一丁前にも、左耳に光るガラス玉のピアスが幼い彼女を彩っていた。
手を隠してしまう袖、如何やってもサイズの合っていないコートは一目で大人用と判る。
小さ過ぎる身体には重くて不恰好だが、保温には調度良い。


空腹感に長く息をつき、一度止まった足を再び動かした。
確か向こうの方で市があった筈。

気が付けば陽もやや傾いてしまっている、昼食には遅すぎる頃。
時間なんて無意味なのだ、
する事もやるべき事も無いのだから。


不意に、の事、

雪色一つに染まった世界の中、視界の端に捕らえた黒い『何か』。
軽く跳ねるように其方へ首を動かした。

何故か、呼ばれたような気がして。


何か、と云うのは髪もコートも黒の男だった。
此処から見ても判る長身。
建物に挟まれ薄暗さの立ち込めた道、何よりも影の気配を纏って。

見定めた其の姿に、やや目を細めただけの少女は背を向けた。

ほんの数秒に満たない視線。
ただそれだけの。

一瞬此方を見たような気がしたが、其れは如何でも良かった。





行き先も無く、走り続けた足は再び路地裏へ戻って来てしまった。

今にも崩れてしまいそうな身体で、弾んだ呼吸ばかり繰り返す。
支える為に片手を着いた、氷のような壁がじわりとした汗の熱を冷ましてくれる。
もう一方の手の中も、空。

あー、失敗。

パンを引っ掴んで走ったまでは良かったのだが、追いかけて来た主人に捕まってしまった。
隙を突いて向こう脛を蹴り、残りの力全てで此処まで逃げて来たのだ。

意外に主人の足が速かった事にも舌打ちはしない、
生活掛かってるのは向こうも同じなんだ。
まぁ……、そんな事言ってれば盗みなんてとても務まらないが。


「どーしよう、かなー……」

ようやく整った白い息、口にした言葉には何の色も無い。

潜んだ場所で唯一音と響いた其れも、すぐに消える。
階段に積もった雪をザッと払い、へたり込むように腰を下ろした。

見上げてみた空は、並んだ背の高い建物に区切られてしまって変に四角い。
薄青の一片。
此処からはあまりに遠すぎて、光は届かない。


首が疲れて、かくんと勢いで下を向く。
動かそうと思えば動く身体、もう一度くらいは挑戦する力も残っている。
しかし、動く意志は彼女には無い。

何もしないのだって選択肢の一つだ。
それに……、動いてみたところで其れは『前進』になるのだろうか?

何処へ、進むと?



微か、鼻先に届いた香ばしい匂い。

閉じていた五感は其れで目を覚ました。
刹那、狭い視界に影が落ちる。

見上げてみれば、間違いは無い……先程の男だ。

まぁ、彼女の視線は男ではなく、男の手の中。
焼き鶏の箱。


「……食うか?」
「うん、」

渡された箱を突き放す術など、彼女にはない。
串を使うのすらもどかしく、ただ無心に鶏をがっつく。
暫し無言。


かなりの間が開いて、男はようやく二つめの言葉。

「何か、裏があるとか思わねェのか?」

ああ、やっぱりねぇ?

「美味しいものでお腹一杯になるなら、別に其れでいいわ。」
「物分かりは良いみてェだな……、度胸も、」

即ち、男の其れは肯定。
空になった箱から目線を上げ、初めて、お互いの顔を。


「……おじさん、悪い人?」
「あァ、そうだ。」

からかいなど其処には欠片も見えず、真っ直ぐに向けられる。

目を伏せれば、閉じてしまえば、逃げられるだろうか?
其れは出来なかった。

いや……、しなかった、だろう。

「それで、お前はどうする?」


「連れてって。」



「……随分、あっさり諦めンだな。」
「諦める?其れは違うわ、自分から飛び込んだんだから。」

何も怯んだりする必要など無い、

結局のところ何処へ行ったって同じ、ただ其れだけの事。
家も無く方々彷徨って今まで生きてきたのだ。
そんな事は解かっていた。

ただ、此れは一つだけ違う。
この先に何があろうとも、此れは自分の決断であって、意志。

今、強く望むのは、『救い』なんかじゃない。


「お前、此処らじゃ見ねェな……、独りだろ?」
「ん、此処に来たのは今日初めて。
 父さんと母さんはずっと前に、お婆ちゃんも……、こないだ。」
「幾つだ?」
「ねぇ、一番って名前訊くものじゃないの?それとも呼ぶ必要ない訳?
 あ。それから、今は10よ。夏で11。」
「……口の減らねェ奴だな……そんなんじゃねェ。」

僅か怪訝の浮かんだ男の表情に、彼女は勝ち誇ったように微笑った。
大人が顔を顰めるのは気分が良い。
出掛かった溜息を呑み込んだ口を開き、男は問うた。

「じゃあ改めて訊く……、お前、名前は?」
「……リンファ。」


「だけ、か?」
「家族居ないのに、ファミリーネーム言う必要あるの?」
「いいか……、名前は大切にしな。居なくたって、お前と親を繋ぐモンだろ?」
「ああ、」

なるほどねぇ、と思わず頷いてしまう。
自分の頭の中で作り出した事以外には従わないつもりだったから。
そーゆー考えもあったのね?


「リンファ・ジェノイセス、これで私の名前全部。」

「……ん。俺は、クロス・グレイン・モルダー、……好きに呼びゃあいい。」
「長ったらしい名前ねぇ。」
「あー……、そう言うな、此れも親が付けた名前なんだ。」
「でもやっぱ長ーい。じゃ、クロね?」

途端、また表情が変わる。
其れは不機嫌や苦味ではなく、少しだけ妙な色。

「どうかした?」
「いや……俺、そーゆー呼ばれ方初めてだな、」


相変わらず、此処は光の射さない場所。
だから、

触れてみたいのならば歩き出さなくては。





からり乾いていて、澄んだ空。

降り注ぐ光を遮るものは何も無い。


眩しさに細めた目、ようやく見つけた尋ね人にリンファは駆け寄る。
そこらの屋台で買ったんだろう、
其の当人といえば紙箱を片手に、焼き鶏を串で突いてる真っ最中。

近付いて行ったところで、気配に目線が上がる。
長身のクロスに見上げられて、リンファは何だか妙な気持ちになった。

すとん、と横に腰を降ろして箱を奪った。
これでいい。


「おい……何すンだ、リンファ。」
「何よ、全部寄越せなんて言ってないわよ?」

まぁ、交渉も何も言ってなかったけど、苦い声が聞いてみたかったから。
串を二つに割り、うち一本と箱は大きな手袋の手に返す。
まだ熱い鶏を頬張った途端、何故か込み上げて来た、笑みと言葉。

「変わらないわねー、此れも。」

「…………あ?」
「別にー、クロ?」



もうすぐ冬と言える月、
ゆっくりと、ゆっくりと、それでも距離の縮まっていく、雪の時期。

6年の歳月は、唇にすら触れ合ったこと無いままで。


いちいち全て憶えちゃいないさ、そんな事。
其れは只のきっかけに過ぎず。

運命?

そんな御大層な言葉で括る気など無い、二人とも。
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2012.02.03