林檎に牙を:全5種類
事の後、半失神で眠ってしまったリンファの記憶は曖昧である。
どれほど時間が経ったのか、如何やって此処まで来たのかも知らない。
見知らぬ部屋の天井、
ぼやけた眼でベッドから眺める事しか出来ずにいた。

放って置いてくれれば良いのに。


何処か殺風景ながらも、品良く纏められている小奇麗な部屋。
横たわっているシーツは男の匂いがして息苦しい。
此処には彼女独りだけ。
逃げ出すのならきっと今だろう。
それでも動けないのは、身体にどろりと溜まった気怠さの所為。



初めて、セックスが怖いものだと感じた。

強姦と云う行為も頭で知っていたし、リンファなりの考え方すらあった。
触れられる事と引き換えに糧を得てきた彼女だからこそ。
そうなったとしても大丈夫だと、今日まで思っていた。


それなのに身体が竦んで何も言えなくなった、
圧倒される感覚。
暴力にも似ていた性交、自分は弱者なのだと云う認識は打撃だった。
震えた肩を抱き締める事も侭ならない。



それからもう一つ、初めてな事、


ドアを叩く音が割り込んで、思考はそこまでで中断される。
肩が跳ねた勢いで思わず上体を起こした。



身構える間を置き、開かれたドアから青い髪の男が音も立てず入る。
後退りしたところでベッドは壁際、ぶつかればそれ以上は動けなくなる。
彼へ向ける視線は怯えではなく、警戒。


「食べます?」

トマトのパスタが温かく湯気と匂いを立てて前に差し出される。
その緊張感の無さには思わず力が抜けたが。
見つけてしまった。
皿を持つ男の指に目立つ、彼女が付けた噛み後。
咄嗟に思い出してしまう事は一つ。

如何する?



「……ええ、」


未だ痺れのような感覚の残るまま、皿を受け取った。
其の手も、細い付け根には彼に掴まれた痕の残るものなのだが。
あぁ、やっぱり自分は薄情な子供だ。





フォークを使う二つの音は会話の無い部屋の中でやけに耳につく。
リンファはベッド、男は少し離れた所に置いた椅子で。
相当、此れは妙な光景だろうと思う。


婦女暴行魔と被害者、

関係を表したら、この言葉以外に今は無いのだが。
沈黙は飽くまでも穏やかで、だけど彼女にとっては重くない訳ではなく。
其れを男が破ったのは唐突。


「……泣かないんですね。」

パスタを巻き付けたフォークを咥えた後で言う。
彼女と激しく触れ合っていた唇に引き込んで、濡れた舌先で軽く舐って。



「何で私が泣かなきゃいけないの?」


声はようやく言葉を形作る。

吐き出した途端、胸の奥が楽になって意志を掲げられる力を取り戻す。
此れこそがリンファであり、彼女らしくもあり。


「普通の女の子なら泣き叫ぶなり、暴れるところだろうけど……私は、人魚よ?
 アンタだって水人だったら分かる筈でしょう、こんな事じゃ屈しない。」

ええ、と頷いてみせる男の表情は、ご尤もと言ったところ。

「セックスでなくても良かったんですけどねぇ……」
「じゃ、如何してあんな事したのよ?」


「遣り方は少々強引でしたけど、体裁取り繕ってない貴女が見たかったので。
 あと……、やっぱりリンファさん美味しそうでしたからですねv」

「……やめてよね、私が食欲なくなるわ。」


苦く言って、溶けたトマトを一口。
こくりと飲み下せば、微かな刺激を伴って赤い酸味が喉を滑る。
美味しそう、ねぇ?

そうだとすると、此れは『ご馳走』したお返しとでも云うのだろうか。


触れた理由は情欲だけじゃないと、この男は言う。
全てを信じた訳ではないが、リンファにとって予想外であったのは確か。
今までの相手は其れ以外に無かったから。



「じゃあ話変えます。リンファさん……、『リンファ』て、どんな由来で?」


其の質問に対し、当然ながら真っ先に浮かぶのは何よりも疑問であろう。
初めて会った時も名前に興味を示していた様だった、そう云えば。


「……それぞれ別の国の、『鈴の花』と『蓮』って言葉を掛けて、って。」

眉を顰めるものの、両親に聞かされた言葉を口にする。
今は、もう遠い記憶の中だけの。
形など無く留める事は出来ず、だけど忘れる事も出来ない声。



「へぇ……、二つの意味を併せ持つ、ですか……」
「そんな事訊いてどうするのかしら、カルロ?」


今まで、人伝てにだけ聞いていた其の名前。
ちょっと呼んでみせたのはリンファなりの意地のつもりだった。
しかし、男から返ってきた反応は意外なもの。
驚嘆に顔を上げ、行為の時すら乱れなかった眼が一度大きく瞬きをした。

「ファーストネーム呼んでくれたの、貴女が初めてですよ。」


「……大袈裟ね。」
「いえ、本当です。勝手に名乗ってるものですしねぇ、僕のは。」

少々呆れの混じった声で言えば、再び意外な応え。
今度はリンファが驚く番であろう。

「泳名?あぁ、水人だから水名かしら。」
「まぁ、そうなりますか……でも、『此れ』が僕にとっての名前なんです。」
「言ってる事の意味が解かんないわ……、えっと……、他にも名前在るって事?」
「んー……、『在った』ですがね、正確には。」


何処か思わせ振りに含みを込めた言葉。
他人に其処へ踏み入れられる事を、拒否しているくせに。
訝しい、と俯くと皿を啜るふりしてリンファは視線を外した。




「髪が乱れたわ……」
「ああ……、それはすみません。櫛使ってどうぞ。」


渡されたシャツを大人しく身に着け、送ると言われて腰を下ろした車の助手席。
其れも微かにコロンの匂いが染み付いていたが、嫌悪感はない。
ごそごそと探り当てた櫛、
クロスのよりも揺れの少ない車では落ち着いて鏡も見れる。
映った胸元の痕からは目を逸らして。


「色んな事一度にありすぎて、何か疲れたわ……」
「あはは、僕の所為ですね。」
「分かってんじゃないの。でも、其れについては謝らないのね。」
「却って惨めになると思いますけど。」

「……殴っていい?」
「運転中は危ないですよ。是非、と言いたいところですがねv」


湧き上がった怒りは消え失せ、握った拳は平に戻る。
此れだけペースを乱され続けるのはリンファの性には合わぬ。
一矢報わねば少々気が済まない。

しかめっ面。


「私で何人目だか、そーゆー事言うのって。」
「一人ですよ?今日が初めてです、手料理振る舞ったのも、寝室に誰か通したのも。」
「あら、其れって特別って意味かしら?」
「ええ……、そうしたいって思ったのは貴女だからでしょうか。」

語調はかなり嫌味を帯びていたのだが。
こうもきっぱり肯定されると、仕掛けた彼女の方が馬鹿馬鹿しくなる。
あぁそう、と素っ気なく返して再び無口。



「リンファさん、僕のところ来ませんか?」
「え?」


知らない景色ばかり眺めていたリンファは、其の一言で意識を車に戻される。
聞き返そうとして寸でのところで辞めた。
耳に届いていたものの、始めは何の事やら解からずに思わず考えてしまう。
隣の男は相変わらず前から目を離さず。

「結構よ。今の職場条件で何とかやってけるし、」
「じゃ、なくて……、身請けされてみませんか?」


猫飼うとか、そんな容易さで彼は言葉を口にした。

何を、言っているのだろう?

今度こそリンファはその意味が解からなくなってしまった。
考え込む前に眩暈すら覚えた。
いや、分かってはいたのだけれども。

それは即ち、彼のものになれと。



「肉欲だけ求めてる訳じゃないんです、僕は貴女に興味があるので。」
「飼育されるつもりは無いわ。」
「保護ですよ?」
「兎も角、お断り。」

一蹴されて、それは残念と苦笑する。
予め、リンファの答えなど判っていたくせに。



「口説いて、みなさいよ。」


停まった車から飛び出すように、降り立った大通り。
此処までなら歩いて帰れる。
家を知られたくないと云うよりも、そこまで世話にはなりたくない。
運転席の男は驚きも引き止めもせず。

ドアを閉じて道と車内を切り離す直前、微笑ったのを見た気がした。
其れは飽くまで穏やかに。




錠剤を口に放った手で捻った蛇口、

派手な水音と共に、涼やかに揺れながらガラスのコップへ注がれる。
溢れても流れを止めようとはせず、水を煽った。
舌先の避妊薬も。
冷たい清流に圧され、喉に引っ掛かりながらも奥へ落ちていく。

身体に残る感覚も消し去るように。
そんな事、出来ないのに。





4年が過ぎて、もう性の経験は数え切れぬほど重ねた。
他人を満足させる為、生きていく為の。
むしろ、嬲られた記憶を割り切れる事で塗り潰すように。

此れこそが、もう一つの初めてだった事。


娼婦のセックスは、客を満足させる為のものであって、愉しむ為のものではない。
だから、『達する』と云う事をよく解かっていない節があった。
意識が飛ぶほどの絶頂感、なんてあの時が初めて。

リンファにとって、セックスとは飽くまで『仕事』でしかないのだ。
金銭上以外でした事はない。
したいともそれまで思わなかった、なのに。


身体の奥に残されたように微か燻るもの。
如何やっても否定の出来ない、疼くような熱。

あの時、男に刻み付けられた快感の甘さ。


性感に目覚めたばかりだった彼女には、其れはあまりに。
『無かった事』に出来る程、僅か13歳だった娘は大人などではなく。

誰としようとも同じだと、そう思っていたのに。
何にも捕らわれず、穢されたところで自分自身は何も変わりはしないと。
憎む理由ならば充分在るのに侭ならぬのは、溺れたと云う其の事実。



また、触れられたら?

拒む事が出来るのか、判らない。



蹂躙されて欲情した……、あれは恐らく、自分の性。
過ぎた歳月は決して短くはないが、今も褪せてはいない。


あれから顔を合わせる度に何かと構ってくるくせ、それ以上はいつもはぐらかされる。
気に入っている、興味がある、とあの男は微笑んで言う。
それでも「好きだ」という言葉は決して使わない。

口の巧いのはリンファも同じ、「嫌い」なんて言ってはやらぬ。







夜のソファーで少しだけ引き寄せた、普段は奥深くに沈めていた記憶。
忘れる事など出来ないのだから、どうせ。
何度も寝返りを打って呑み込まれそうになるのをやり過ごし、それでも考えていた。


あの男が自分に求めているものは一体何なのだろう?


愛情なんて甘ったるいものではなく。
劣情なんて明確なものではなく。

解からないから、胸が締め付けられる苦しさは消えず。

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2012.02.03