林檎に牙を:全5種類
此の病院に「ダリオール」と云う女医は二人居る。
よくあるファミリーネーム、であればそれまでだが此れは偶然ではなく。
一人は、波打つ黒髪を束ねた産婦人科のガーベラ。

それからもう一人。



下半身を引き摺るようなリンファは歩くにも壁伝い。
ふとした瞬間、深い場所からずるりと黒い血が滑り落ちた気配。
独特の気分の悪さも抜けず。


「……っと、あんた大丈夫かい?」

よろけた瞬間、リンファの肩に誰かの手。
背中を預けたままで頭を動かせば、逆さまに。


Dr.ジャスミン・ダリオール、此の病院の外科医でありガーベラの叔母。
肩までの金髪、翠の目許に柔らかな皺が刻まれた顔立ちは勝気に。
纏う空気は違っても、其れはいつ見ても友人の一人を思い起こさせるもので。


助け起こされて、再びリンファは部屋へと足を動かし始めた。
去り際に此方へ軽やかにひらめくジャスミンの片手、
当直室のドアノブへ。
金属音で破り、薄暗い室内に滑り込んでいった。

「シュレッド、」


外界を拒絶していたカーテンは開けられて捲られた毛布、
中年に近付いた男を真昼の陽に晒す。

乱れた黒い短髪、寝起きの顔には無精髭。
それまで眠っていた割りには疲れている目を雑に擦って、不機嫌。
白衣を羽織り、漸く彼が医者であると知らしめた。
Dr.ディラン・シュレッド、こんな風貌でも小児科医。


「……んだよ、人が寝てる時に。」
「優しく起こして欲しけりゃ嫁にやってもらいな。」

刺さるような言葉は未だ独身のディランの耳に痛い。
天敵とも思える者に言われれば、更に。
年は幾つも離れてないが、吐き捨てたジャスミンには夫も子も居る。


「あー、当直明けツライ……時間か?」
「いや。アンタの寝起き観察に。」
「……出てけッ!!」
「てのは冗談だよ。ダリアが居ないから探せって、Dr.アルドネーズから。」

吼えんじゃないよ、と制すジャスミンは緩やかに。
名前を聞いてディランは眉間に皺。
其れが表すのは「面倒」と云うよりも、「つまらない」であって。


「あぁ?あいつはジッとしてねぇのなんて、しょっちゅうだろ……」
「まぁねぇ、何を今更。」




眠るのは得意分野でも、昨日の夕方に此処に来てから其ればかり。
あまりにも退屈な日の始まり。
個室の一つ、瞼の軽すぎるリンファは寝返りも満足に打てず。


ベッドは薄くてパイプの脚では心許無いのも少し。
本来ならばそんな些細な事を気に留めるような神経はしてないが、今は不安定。
昨夜よりは良いが、未だに続いている痺れもイラつきに拍車を掛ける。
いつもは初日を越えれば楽なのに、しつこい。

一日寝て過ごしているだけで何もしなくて良いし、3度の食事付き。
リンファの生活は家事に庭の菜園の手入れが加わる、
やらなければいけない事は、数えれば両の指を使っても足らないかもしれない。
幾つかは切り捨ててもやはり忙しく。
そう思えば、食べて寝るだけである今の環境は楽の極みだろうけど。

虚しいほど清潔な白いベッドで、薄味の食事をつついても美味くも無い。
感謝はしている、それは本当であっても。
ソファーに寝そべって、好きな時に野菜を齧れる日常が恋しい。


髪を梳いて、結び紐を指に絡め、ピンを選ぶ。
気分の重みに押し潰れてしまいそうな時は、好きな事をするのが一番。
そしてそれは、耳元の髪を纏め上げた時だった。

ペタペタと小さな靴を引き摺って、部屋に近付く足音。


だらしない半開きの扉は幼い少女を映すには充分であろう。
寝巻きから突き出てた手足が貧弱なほど細い。
そして、9つと云う年の割には小柄な為、幾分か更に幼く見える。
だが瞳だけは違う、
子供らしからぬ静か過ぎる色。

「ああ、入れば?」

声を掛けると返される小さな頷き、それは一瞬置いて。
迷いや遠慮ではなく窺い。
野良猫のような疑い深さとしなかさを以って、ダリアは隙をくぐり抜けた。


他人の体液を吐き出される娼婦の身体は、妊娠以外にも病を患う危険がある。
月に一度、血液検査を受けに来るリンファは病院馴染み。
此処では何度か見た事がある子だ。

狭くはない院内で迷子になっていたところを保護したのが縁か。
其の時、7つになる前の子供は涙一つ零さず平静だった。



「なんだ、リンファも入院してたんだ。」
「昨夜からちょっとね、」
「ふーん、デキたの?」
「……違うわよ。」


以来、こうやって言葉を交わす仲ではあるが内容は乾いたもの。
気兼ねの取り払われた、毒も含んだ素顔で。
取り繕いや表面だけの飾りには無縁の彼女であっても、普段晒さない部分。

クロスにも其のままで接しているとは云え、やはり男だ。
昨日、ソファでぐったりしていたリンファに言葉を呑み込んだのを知っている。
孕んだんじゃないのか、と。
はっきり言ってくれる方がマシなのに。
同性であっても解り合えない時だって確かに存在するが、それでも心強い。


小さな靴が一歩、二歩。
静かに近付いて、ベッドに散らばる色彩様々のピンに目を落とす。
ダリアも結んだだけの髪を解いた。

「やってくれる?」
「良いわよ……でも腰掛けるなら膝の上はやめてね、痺れてるから。」


長い褐色の髪は寝癖だらけ、ダリアも入院に飽きていたのだろう。
櫛で梳くと、リンファの手の中で柔らかに溶け出した。


「珍しいよね、リンファが一人で居るのも。」
「んー……クロのこと?」
「うん。いつも病院で違う女の子連れてるからコマシかと思ってた。」
「ある意味、ソレよりタチ悪いかしら……ダリア、そんな言葉何処で覚えたのよ?」

「知ってて使ってるよ、意味くらい。」


しっかりしてるとか、大人っぽいとか、他人は勝手な事ばかり。
子供を突き動かす全てである筈の感情は、ダリアには死んでいるも同然なだけ。
彼女自身は、そう思っていた。

無邪気こそが愚かである、こんな街では。


黒い手は何処へでも伸び、庶民の子供が安堵出来る場所など限られて。
同年代の近所の子供達が消えた事は何度かある。
如何なったかは大人の間でひっそり囁かれつつも、ダリアはぼんやり悟っていた。
もう二度と会う事は無いと、此の世に存在しないと。

『そう云う事』なのだ、甘い言葉は。
『そう云う街』なのだ、此処は。

身体が弱いのであまり外に出られずに過ごしてきたが、それでも解る。
無菌の家の窓ガラスの向こう。
汚い部分ばかり見知ってきた所為で、無条件に他人を信用など出来ない。



「でも、外に行かない訳にはいかないでしょう?」


リンファの言葉の前で、ダリアは何も返せなかった。
そう、此れもまた事実。
汚れた空気の中でも、呼吸をしない訳にはいかない。
泥混じりの水でも、飲まずには生きていけない。


其処にある物が清浄であると云う事が、どれだけ価値があるか。
健康体でいられる事も同じであって。

どちらも掴み取らなくてはいけないダリアには、重く。



輪を三つ作って上から下へ、廻した白のリボンを引っ張り上げる。
二重の蝶々が髪に留まるフォーループ。

「はい、出来上がり。」

「……ガキくさっ!」


重なる蝶々は編まれた褐色の先。
鏡を渡されるまでもなく、摘み上げて目の前に翳し、一言。
其れでも解く事はせずに。

「髪にリボン結んで可愛いのは子供のうちだけよ、特権は大事になさい。」
「そうね、リンファの年でやってたら馬鹿に見える。」


憎まれ口は小生意気に、だけどリンファは目で微笑した。
もう少し子供で居させてあげる。
だから、あなたはあなたのままで、どうか祈らせて。
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2012.02.03