林檎に牙を:全5種類
恋愛未満。
この二人に関しては、作中では健全な方です。
靴下の歩みは板張りの床に無音。
襖が横に滑ったところで千之助の耳を突然に叩いた。
振り返る直前、背中を微かに撫でたバニラの芳香。

洗い立ての長い髪は濡れて、墨を含んだ筆先を思わせる艶を持つ。
雫を吸う白いタオルと対比鮮やかな漆黒。
後ろ手に閉めれば、纏めきれなかった数本が微風に散る。
凛とした顔立ちも今は少しだけ緩く。
軽く開いた唇で一息吐いたのは紫苑だった。


旅館に似た造りの本部兼下宿所は浴室が遠い。
水音の気配など一切感じさせずに現われたものだから、肩が跳ねてしまう。
昼過ぎの居間には二人きり。
建物を囲む青竹から吹き付けた清風が、日溜まりの窓に冷たい。

「それ味噌汁??」
「何故そうなる?!」

千之助の湯呑みを一瞥して紫苑が呟いた。
其の傍から横を向いて吹き出す、自分で言っておきながら。
確かに、腹の足しに味噌漬けの野菜を齧るのは彼の常ではあるものの。

「やってらんないわよ、笑ってでもないと。」

手で打ち消して、千之助と同じように畳の上に腰を下ろす。
湯上りの肌は薄紅が溶けた色。
引き締まった細身を隠すには、シャツとスカートだけではあまりにも薄い。
目線が同等では何処を見ているかなどすぐに判ってしまうだろう。
如何も落ち着かなくて視線を外す。


充分な広さがあっても、大勢での共同生活と云う物はプライバシーが少しばかり薄い。
他人、ましてや異性と接する事など慣れていないのに。
世話になっている身なのだから文句一つも言えやしない。
此処以外を出たら行く場所など無いのだ、何処にも。

血の濃い環境で生まれ育った千之助にとって、距離感を掴むのは難しい。
幼い頃から、老若男女問わず周囲の人間は大抵が自分の姓。
生まれてしまったのはそう云う家なのだ。
過去に一人だけ、"女"として見る事を許されて寝食を共にした者も居た。
けれどやはり血縁者であり、望んでそうなった関係にあらず。
歳月は短く、思い出すには苦過ぎる。
とても夫婦などと呼べるような間ではなかった。


暗い影を払ったのは、此方へ真っ直ぐ向けられた紫苑の視線。
何事か、と訊ねるよりも早く細い指が伸ばされる。
開く時機を逃してしまった口は硬直したまま。

「顔、絆創膏貼ったら?」
「ん?あぁ、気付かなかった……」

陽に焼けた頬を触れられて初めて小さな痛みが走る。
そう云えば、と先程の戦闘を思い出す。


千之助の、否、遠雷が憑依した千之助の武器は弓矢。
遠方から敵を射抜く事が可能だが、逆を云えば間合いを詰められると命取り。
掠めただけで済んだのは幸い。
尤も、此の程度など討伐師には付き物。

最前線で刃を振るう紫苑ならば生傷は更に増える。
自身のよりも、対峙した者の鮮血で汚れる方が多いものの。
何しろ、其の刃を形作る霊力の半分は猟奇趣味の者。
憑かれた事によって精神状態も変わってしまう。
妖を屠る時、紫苑が笑みで歪むのは瑠夜の持つ残虐性の影響。
瑠璃色に変化した瞳に闇を宿して。

姿形無き神や霊を肉体に降ろし、力を借りるのが古来より神職者の役目。
憑依討伐師の戦法とはそう云う物である。
そして習得までに何度も苦痛に耐え、使い道を間違えれば命を落とす事もあるのだ。

ただし、装飾品を外して霊が抜け出れば、紫苑の瞳は髪と同色の黒。
其の身を染め上げた深紅など一滴も見当たらない。
それもこれも仲間に水龍の湖雪が居るお陰。
加えて、雨冠の名を持つ者なら液体を操る事など容易い。
浴びた血は跡形も無く消し去れるし、身体を洗い流すのも霊気で清めた水。
湖雪に足を向けて眠れない、と彼女はよく笑う。


「芳坂、本当にお前はそれで良いのか?」
「瑠夜を制御出来るのは私しか居ないもの。」

そうではない。

眉を顰められても、今更であっても、言わずにはいられなかった。
此の道に踏み入れたばかりの少女であったならば、寧ろ口にしなかったであろう。
歳も経験もそう違わないからこそ投げ掛けた言葉。

滴る程に化物の血を被り続けていれば、常人なら気が振れてしまう。
別の道を選んでいたら真っ当な幸福を掴めていただろうに。
だと云うのに、紫苑は如何だ。
それでも自我を保ったまま笑う事が出来るのが不思議でならない。
殺戮の愉悦とは違う、彼女自身の。


千之助の言葉の裏側に気付いたのか、紫苑は少しだけ考え倦ねる表情。
ところが不意に、強気に弧を描く唇。

ああ、そうだ、此の笑みだ。

「佐谷さんだってそうでしょ、遠雷さん居てこそだと思うし。」
「いや、アレはお前が思うほど良い奴ではないぞ?!」


はぐらかされた気分になって考え込むのは中断。
ただ、いつか解るかもしれない。
此処に居る限り共にする時間は幾らでもあるのだし。


紫苑から柔らかに香るバニラは甘く、既に慣れてしまった物。
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2009.03.20