林檎に牙を:全5種類
汚れたシーツは洗濯、乱れた部屋に箒とモップ、ガラス皿にはチョコレート。
吹き付けた淡い香料で情交の匂いを消し去って。
入れ代わり立ち代わり訪れる客達を迎えて送って。
もう一日に何度も。

連れ込み宿「aventure」、冒険的恋愛の為に。




やや乱暴に開かれた扉、事務室へ戻ってきたジニアがソファーに腰掛けた。
疲れた目と溜息の重さに手も止まる、
ペンを走らせながら、売り上げの算盤を叩いていたバノックは一休み。

「どーしたんよ?」
「いや、もー頭来るっス……」

ジニアはアルバイトに入ってから一ヶ月目、
最初こそぎこちなかったものの、もう此処の空気にも慣れた頃の筈。
何がそんなに痛むのか両手で抱えた頭、項垂れたまま口を開く。


「お酒頼まれたから、ベル鳴らしてルームサービス用の小窓開けたら……
 好色そうなオヤジが裸で泣いてる女の子にベタベタしてんスよ、こっちに見せつけて。
 『キミもどうかね?』て言われて……ドアぶち破って殴ってやりたかったス。」

ソファーに沈ませた腰は骨っぽい。
大柄で髪も短いのでほとんど男性に見えるが、歴とした乙女であって。
否、問題は性別を間違われた事ではない。
乙女だからこそ、向き合ってしまった穢れた現実は重く。

「ん、よく耐えた。ジニアちゃん偉い!」
「此の場合「偉い」は違うと思うっス……、自分は何も出来なかっただけで、」


彼女の嘆きは、其れからすぐに晴らされたと言えよう。


問題の部屋から呼び出しのベルが鳴ったのは数時間後。
渋るジニアを考慮して部屋に待たせ、駆けつけた従業員達が戻ってきた。
緊急事態時、一人では危険なので必ず二人で行く決まりがあるのだ。

「……何があったん?」


口で両手を抑えても肩の震えは確か。
隠し事は出来ないのだ……、只でさえ笑い上戸のシオンには。

コーニッシュも喉を鳴らして笑みの余韻。
色素が薄い彼の瞳には陽が痛む、
秋晴れの中で洗濯の途中だったらしく、サングラスは掛けたまま。

「それがさぁ……行ってみたら、裸でベッドに括られてんの、そのオヤジ。」
「衣装貸して帰したけどね、アレは『子羊』の仕業だわ。」
「マジ?!見たかったー、残念っ!」
「…………ソレ、何スか?」


訳が解らず、ジニアは一人で眉根を顰めるばかり。
ニヤリと云う笑みに変え、プロフェッショナル達は種明かし。


「こーゆー連れ込み宿の間では噂になってんの、それによると……
 一見可愛らしい子なんだけど、男は事の後で必ず眠くなっちまうんだとさ、
 起きた時には手足縛られててスッポンポン、金も服も全部持ち逃げされてるって。」

「ウブそうなお嬢ちゃんって事と、羊数えるように眠くなる事掛けて『子羊』ね。」

なるほど、妙に納得。
女性とは元来強かなものなのである。

腹が膨れて気持ち良く眠る狼、実は食べたのは皮一枚だけだった訳か。
毛皮も牙も剥がされたのでは代償が高すぎる。
逃げおおせた子羊は今頃、何処かで遅い昼食でも頬張っている事だろう。


「それにしても、うちに現れるとはねぇー。」
「後、性器に牙があって喰い千切る人魚が居る噂とか。」
「あれ?ソレって避妊具じゃなかった?」
「逞しいっスね、先輩方……」



此処を訪れる客は、堂々と愛し合える者同士ばかりでは無い。
愛情表現の一つや子孫繁栄、
性交とは、それだけでは無いのが現状であって。
一時的な恋人、金銭上の恋人、認識せざるを得ないであろう。

「どんな人生にも性はついてまわる」
本の中に在った言葉、其れは事実と受け止めている。


秘め事でなければ、こんな商売無いのかもしれない。
其処は人間が人間である所以か。
動物であれば誰に見られようが何処であろうが、気には留めないのだ。


如何しても恰好の場所が必要になる、其れが連れ込み宿。


もう一日に何度も片鱗を見てしまうのだ、其れを何年も何年も。
流石に何とも思わなくなる、
従業員達自身の方は愛ある性交しか知らずに居ても。
自分とは全く無関係であれば尚更。

冷静な目に映る『行為』は愚かしくあり滑稽であり、何処か愛しい。
何故か、と訊かれれば難しいけれど。
例え言葉に出来たとして、解ってくれるほど世間は心が広くもなくて。




「ああ『子羊』ですか……本当に居たんですねぇ。」
「そー、こりゃ若旦那にも教えてあげなきゃーって。」
「ところでバノックさん眠そうですね。」
「ヘアカーラーが気になってねぇ~、寝返り何度も。」


バノックの耳の上、二つに結ばれているのは赤い巻き髪。
間抜けに大きく欠伸、
其の度、鈴に似た軽やかさで震えて揺れて。

向かい合うのは対照的な深い青、
切り揃えられた髪を掻き上げると口許で微笑。
ソファーに悠々納まるカルロは、手袋の無い指でチョコレートを一つ。
身に纏うのがスーツなのが惜しまれる程、女性的な優雅さで。


濃い目のコーヒーを啜って眠気を払っての談笑。
月が昇る夜こそ稼ぎ時とする彼らには、此れが丁度良い。
「快楽を提供する仕事」としては同じであって。

こうやってカルロとバノックがお茶の時間を過ごすのは珍しくない。
考え方は違っても、だからこそ気が合うのだろうか。
仕事での出来事から感じ取る様々な物、話すのも聞くのも互いにとって面白い。
勿論、プライバシーと云う境界線は守っての内容であるものの。



「人の本質が現れるのは、石に転んだ時ですね。」
「石ぃ~?」


話題は変わって、今は少しだけ真面目に。
こうして彼独特の哲学を披露する事も時々ある。
若造が一丁前に、と野暮な年寄り達は言うけれども。

だが、何も考えずにカルロは此れまで歩いてきた訳では無い。
それに、罵る者達の方はと云えば彼の人生の事など何も知らないのだ。
ならば口を閉じる必要など何処にある?
聞いて愉しんでくれる人なら、此処に居るのだ。


「飽くまで例えですけどね……、人間は二足歩行ですから障害に当たる時もあります。
 その時に、勝手に転んでおいて石に怒鳴る人って居ません?」

カルロの笑みは意味ありげに、応えを求める。
言葉を考え込む仕草。
深さを知って、バノックもまた緩く頷いた。

「レジャンスの若旦那が言いたいこと解るよ、何となく。」
「でしょう?」

バノックもまた、幾つもの石で擦り剥いた膝の痛みを堪えてきたのだ。
若くして宿の主に納まるまでには大小様々な石。
そして、石は違っても躓いた人々も見てきたのであって。

「色々パターンは分かれますね、石の所為にするのは一部。」
「だなぁ……、他にどんなんが居る?」
「痛いから誰か起こして下さい、って転んだまま手を突き出して待ってる人。」
「自分は完璧だから最初からスタスタ歩けました、て気取る奴。」
「石の大きさを自慢して、「それでも立ち上がったんだ」とか鼻に掛けて喋る人も。」

例はとりあえず此処まで。
二人揃って、吐いても仕方ない溜息は長く。
カップの湯気を吹き飛ばす。


「転んだことの無い人間なんて居ないのに変ですよねぇ。」
「黙って乗り越えろっつーの、そんなモン。」
「それも良いですけど、」
「ん?」

意味ありげに途切る言葉。
コーヒーで喉を潤してから、カルロは続けた。

「転んだ石を拾って持ってる人ですね、僕の理想は。」
「貧乏性とも言うけどねぇー……、ソレってリンリンの事言ってる?」
「如何でしょうね?」
「クエスチョンにクエスチョンで返すのって狡いー。」


冗談半分、上目で頬を膨らませてみせる。
対するカルロは小さな笑い声を零すものの、其れは恍け。
生憎とバノックには通用せず。

タイミングを計っていた訳ではないが、探り入れた手を引っ込める気も無い。
未だ何も掴んではいないのだ。

「若旦那ってさ、リンリンの事好きなん?」
「気になります?」
「まーたやった、」
「これはすみません、次からはきちんと答えますね。」

横道へ逸れても質問は流れていない、流す気は無い。
バノックが一つ頷いて再び本題へ。
赤い鈴は音無く揺れ続け、間延びした同調。


「前から一回訊いてみたかったんだけどさ、コレは。」
「ふむ、バノックさんはそう見えますか……」
「ちょっと違うぜー、好きなようにしか見えんのならわざわざ訊かない。」
「ま、確かに傍に居てほしいとは思いますけど……、愉しいですしね。」
「ならソレ『友達』と何も変わらねーじゃんー。」
「ですよねぇ。」
「そんだけが恋愛だったら若旦那の事かなり愛しちゃってるよ、俺。」
「あはは、僕も同じです。」

気の利いた冗談にバノックが膝を叩いて腹を抱える。
笑い飛ばすのを見て微笑んでから、今度はカルロからの問い。

「じゃあ、『好き』ってどんな感じです?」


いまいち恋愛感情は解らない、前にもカルロはそう言っていた。
何事にも『定義』という物が無ければ納得できないのだ。
厄介だが、大人が性格を直すのは手遅れ。
ならば隠すか押し殺すしかないものの、バノックの前で其の必要は無く。
そう云う時間なのだ、今は。

前で組んだ両腕、バノックは頭の中の辞書を捲る。
感じる事は数え切れぬ程でも相応しい言葉はそう簡単には見つからず。
口は開きっぱなし。
其処から答えが出るのは、少々ロスがあった後。

「生活の一部だな。触れてたい、離れたくない、隙間出来ると耐えらんない。」

傾けたカップで乾いた舌を湿らせて、一息。
此れがバノックなりの解答か。
未だ全てではなく、更に言葉を繋げて付け加える。


「何だかんだ言っても身体で愛し合ってこそでしょ、惹かれ合うって事は。
 触れるっても、コミュニケーションだから髪とか手とかだけの事も含めてだけど。」
「なるほど、」
「こんな感じで納得した?」
「だったら『憧れ』……でしょうかね、此の場合。」

如何云う意味か、とは敢えて訊こうとしなかった。
バノックの口を塞ぐのはチョコレート一粒。
溶け切る前に次の言葉、
待ってくれるような相手でも無いのだ。


「一つ言うと興味ありますね、考え方とか行動とか。」
「ソレはリンリンの方も同じじゃないかね、俺はそう思う。」
「ですか、」
「何つーか『相思偏愛』って感じだろーな。」
「言いえて妙ですね、バノックさん。」
「あと外野からコレだけは言っとく、だからって鎖で繋いだりすんなよ?」
「判ってますって。」

大事な事は流れるようで、本当に聞いているのやら。
それでも偽善を少しも口にしない辺り、其れは誠意と言えようか。
訝しみながらも、バノックが出来るのはこんな事だけ。


「無理でもやりそーに見えるけど……、若旦那なら。」

「そんな事しませんよ、玩具が壊れたら遊ぶ物が無くなるでしょう?」


毒気を以って微笑う残酷さ。
其れこそ、長い間人魚達を飼い慣らして飯を食ってきた男の顔。
交わした視線、バノックはたじろぐ事も逸らす事も無く。
只、既に冷め切ったコーヒーを舐めた。


親友とか熱すぎる言葉で括る気は無い。
茶飲み友達にしては、会話の内容は穏やかな物ばかりでなく。

でも、全て曝け出して気を許す時間なのは確かで。
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2012.02.03