林檎に牙を:全5種類
香料の振り撒かれた宿から抜ければ、頬を撫でる風はあまりに乾いていた。
先程まで完全に遮断されていた陽を浴び、素肌が灼ける感覚。
洗いざらしの髪には丁度良いけれど。
情欲も乾かすような晴天、と言いたい所だがそうでもない。

身体に残るのは疲労ばかりで何処も湿らせてはいない。
ベッドは飽くまで仕事場であって愉しむ場所ではないのだ、彼女には。


「立て続けに仕事持ってこないでくれる、真っ昼間から。」
「うちが人魚少ねェのは知ってンだろ。」

クロスが頭を掻いたのに釣られ、リンファも指先で髪を直した。
薄地を重ねた白いドレスは下着にも似ていて、襟足から背中までを無防備に。
幼げな顔立ちだが、ぽってりした唇は舐め擦ったような艶やかさ。
いつも何処か眠気を引き摺る表情。


其れは淑女などではない。
此の界隈では『人魚』の隠語で呼ばれている、娼婦。

彼女らが活動する裏道や夕刻には有り触れた光景。
まだ少女と呼べる年代であっても、纏う空気は色が香り立つ。
其れは決して珍しい事では無いのだ。






走り去るクロスの車のエンジン音を背中で聞き流し、リンファは家の戸を開けた。
踵の高い靴で階段を上がり、稼ぎの入った封筒を寝床へ投げて。

自由になった手は肩紐の結び目を摘み上げる。
支えを解けば、戦闘服とも言うべきドレスは微かな音で滑り落ちた。
膝の裏に吹きつけておいた香水の甘さが舞い上がり、空気に混ざり込む。
見せるための下着はフリルが痛い、
其れも外すと、視界の端で鏡の自分と目が合った。


ぼやけた空間から切り取られたように白い裸身。
乳房から下腹部にかけては引き締まっても、全体的に幼く生硬い。
腕を動かせば肋骨が浮くほどに肌は薄く。

そんな身体でも欲情の対象になるのだから男の気が知れない。

まぁ嗜好なんて人それぞれだけど。
手早く下着を身に付け、着古したワンピースを頭から被った。


リップグロスだけの素顔も、紙に口付けベトつきを落とす。
エナメルの艶を持つネイルを剥がせば、桜貝が並んだような短い爪。
しかし、その細い指先は少しささくれて硬い。

雑に首を軽く振ると、未だに湿った黒い髪が胸元に滑った。
櫛を通して首の後ろで結い上げる。
人魚の美の象徴とされる髪も、これからの作業には邪魔な物でしかないのだ。
そして拾い上げたのは泥が跳ねたエプロン。
布地に残る土の匂いが、一息ついた胸には妙に温かかった。



寝床で目覚ましに飲んだカップ、朝そのままで冷たくなっていた。
持ち上げてみると、部屋の薄い埃を浮かせて不安定に揺れる。
そう言えば、台所の鍋一杯に作ってしまったミントティーも同様だろう。
捨てるなんて勿体無い事はしない。
畑に飲ませれば、此れは虫除けになる。

台所へ降りて早々、濃いミントティーを如雨露に移し変えた。
静寂とは水音が加わると一層深くなる。
一人で住むには広すぎる家。
元は廃屋だった為、下の階は生活の匂いがほとんどしない。

ああ、何もかも今更と言ったところか。
寒々しい空間にリンファは背を向け、錆びた裏口の戸を押した。


目に付き刺さるのは陽光と、視界を埋めるように青々茂った葉の色。


あまり大きいとも言えない裏庭は、丸々一つがリンファが作った畑だった。
草が伸び放題の此処を『畑』と呼ぶのは彼女だけかもしれない。
手入れされきった立派な物などではないのだ。
野菜が根を張るのは日当たりの良い特等席くらい。
絨毯のように敷き詰められた野草に混じって育つのは、様々なハーブ。
季節が来れば、埋め込んだ花の種が色彩を咲かせた。

「ただいま、かしら?」

傾けた如雨露、琥珀色の雨と一緒に言葉が降る。
艶々した葉の上に叩きつけられて砕け、丸い雫が地面にも染み込んだ。


土に染まった爪先で、逃げ出した小さな虫を弾く。

生活に必要な事を成すのは全てが自分の手。
独立自尊、と云うのは結構忙しい。
畑の手入れして、食事を作って、洗濯もして、それから……




煉瓦で固められた壁際に立つのは蜜柑の木。
大きい物ではないのだろうが、リンファの背よりはずっと天に近い。
両手でなら掴めそうな幹はつるりとした表面。
深緑の葉、紛れ込むように同色の硬い実が枝を重くしている。

甘やかな花を咲かせていたのは、もうずっと昔のような気にもなった。


色と香りで誘って、魅せて惑わす花。
生殖器であるが所以であろう。

それで生活を築く人魚と、同じく。

境遇も身体を売る事も悲観などしていない。
まだ幼かった頃から此の仕事している為、だろう。
他の少女達が13~14頃で始めたのに対し、リンファが人魚を名乗ったのは10歳。
これが自身の『普通』だと受け入れてから随分経ってしまった。

其れなりに心穏やかでいられるのだ、
今在る事だけに感謝して如何にもならぬ事など望まなければ。


蜜を与えて、狂いそうなほど心地良く酔わす為の存在。
愛情も受精も無くて良い。
本物の花とリンファ達人魚の違いは其処だ。

花は精を、人魚は金銭の為に開く。
咲き続けなければいけない彼女達は、実をつける事は出来ない。



実った物は色付く時を待つだけだ、食べてくれと。
捕食した者には残り滓として扱われる種も、土に落ちれば再び芽吹く。
そうして継続してきた、これからも変わらぬ生のシステム。

其のシステムに反する私はエゴイズムなのだろう、
物言わぬ野草を踏みしめて、リンファは密やかに思った。

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2012.02.03