林檎に牙を:全5種類
夕方にベッドで聴こえた雨音は何も変わらず夜まで継続していた。
カーテンを少し開けば、ガラス越しに伝わる冷気。
まだ夢を彷徨ってるようで頭が冴えず、毛布の心地良さには抗いがたい。
此処から外、窓の灯りは早いところならば消える時間なのに。
これだから夜の出勤は辛いのだ。


それでも起きなくてはならない。
自分の行き先には本気で待っている人々が居るのだ。

医者であると云う使命感はいつだって怠惰を許さぬ。
血筋から来る物なのかもしれない。
眩しすぎる灯りに目を擦りながらガーベラは密やかに思う。


半分凍ったような指先で柔らかい黒のワンピースのボタンを留める。
眠る時だけの三つ編みは解かず、季節には少しだけ早い厚手のコートを羽織った。
柔らかな重みが肩に掛かった拍子、
靄の掛かった頭では立ち眩みが足を縺れさせる。
思わず鏡台に掴まった途端、派手な音。
勢いで上に置かれていた宝石箱が床に散ってしまった。


「…………痛ぁ……」

衝撃を受けた瞬間よりも後の痛みの方が響く。
しゃがみ込んだまま、小さく溜息のように吐き出した声が雨音に溶ける。


痺れた手が擦り剥けなかったのは幸いか。
香水や化粧水の瓶まで被害が及ばなかったのも。
木製の宝石箱は端が少し欠けてしまったようだが仕方ない。
落としてしまった物が壊れてない事を確認しながら、一つ一つ拾い上げる。
蝶が重なる髪留め、華奢な指輪、七宝焼きのブローチ……


それから、銀色の念珠。


一瞬だけ触れた指先から、電流に似た痛みが胸に突き刺さる。
鋭く心臓を跳ねさせた。
其れは冷たさの所為だけではない、決して。


再び手に取った直後、箱に叩きつけて乱暴に蓋が下ろされる。
逃げはしないというのに、そんな事は解っているのに。

粘りつくように手に移った、念珠の冷気もやがてゆっくりと体温に溶け出す。
その間、きつく閉じていた瞼が漸く緩んだ。
安堵の溜息、一つ。

念珠自体に罪は無い、罪があるならば……



古い物であるが、鈍くも光を失っていない念珠。
家を出る前、神に一生を捧げた母に持たされた物である。
必ず護ってくれる、と。

そんな母を、決してガーベラは嫌いではなかった。
彼女自身は神の存在は曖昧に思っていたが、幼い頃から共に祈る習慣を忘れずに。
しかし其れは、街に来る前までの事。

見てしまったからだ、神など此の世に居ない事を。


医師の家系で生まれたガーベラには、他の道など自分に必要無いと考えていた。
命の大切さに向き合いたいと云う熱意のまま、産婦人科を志す。
全ての命には意味があると信じていたから。

10代の頃から医学を学び、彼女なりに自信がついてきた頃に家を離れると決めた。
勿論、此処がどんな場所かは聞いて知っていたつもりだった。
だからこそ力になりたいと思っていたのだ。
聞く事と身を置く事がどれだけ違うのか、其の時まで知らなかったから。


請け負う仕事は感動的な妊娠や出産以上に、苦い感情が付き纏う。
春を売らねばならない子供のなんと多い事か。
彼女らの痛みと自分の無力さを呪って何度泣いただろう。
望まぬ妊娠に対面するたびに、やがてこんな考えさえも浮かび上がる。
受精とは、単なる性のシステムだと。

今まで過ごしていた環境など温室のようなものだと思い知らされた。
荒野に足を踏み入れてほんの3年、
細かな擦り傷だらけで心さえも曇りそうになる。


「……本当に神様が居るとしたら、残酷ね。」

欠伸する振りをして手に口を当てた。
溜まった涙を誤魔化す為に、此の街で身に染み付いてしまった癖。
誰も見ては居ないと云うのに。





食欲は無いが、簡単な物でも口にしてから出掛けよう。
そんな事を考えながら階段に足を一歩、下の部屋が明るい事に気付く。
此の家の持ち主である叔母は病院の筈。
だとしたら、

「アイヴィ?」
「あ、おはよ。」

夜には相応しくない言葉で少年が立ち上がる。
灯りの下で金色の糸になる髪が此方に揺れ、柔らかな笑みに瞳は細く。
此の家のもう一人の住人。


「どうかしたの、今日は早すぎない?」

いつもならば、まだアイヴィも自分の仕事をしている時間の筈。
しかし、ガーベラの目の前に居る彼は湯気で煙る皿を手にしてエプロン姿。
二人分のシチューは出来上がったばかりの物だろう。
どう見ても、今帰ってきたところではない。


「うん、でもガーベラが行っちゃう前に会いたかったから。」

微妙に答えになっていない。
早く切り上げてきたと云う意味なら、自分などの為に良いのだろうか。
感謝以上に、申し訳ない気持ちがガーベラには過ぎってしまう。
フィセル家で家政夫をしているアイヴィは毎夜帰りが遅い。
主人の夕飯を作って片付けて、翌日の仕込みに……

そうだ、同じ家系に生まれながら、アイヴィは医師の道を選ばなかった。

此の街を選んだ理由は、頼れる叔母と可愛い従弟に会いに来た事も挙げられる。
小さい頃は一緒に住んでいただけあって、仲の良い家族だった。

しかし、会えなかった時間による変化は決して小さくない。
数年ぶりに顔を合わせた少年は、成長期を迎えた頃。
いつからか身長はガーベラを悠々と追い越し、ピアスなんて空けるようになっていた。
それでも、よく見知った子供の頃から変わらぬ明度のままで笑う。

言葉にはしないが、医師にならなかった事は正解だったとガーベラは考える。
世話をする事で幸せを感じる彼が、命の現場で心を磨り減らすなど耐えられない。




ある時代、ある場所――



不意に、小さく紡がれた歌に思わず顔を上げた。
向かい合いの視線がぶつかる先、
アイヴィはガーベラが口を開く前に答えをくれる。

「いつも通る道でね、歌ってる人達が居るから覚えちゃった。」
「『カルマの坂』、よね?」


そう、其の歌ならばガーベラだってよく知っている。

乱世の時代に、風の速さを以って食べる為の盗みを繰り返す少年が一人。
其処には善悪さえも無く、ただ必死に生きる為に。
ある日、行列の中で出遭った美しい少女。
美しい瞳が零し続ける涙の色に少年は見てしまった。
金持ちの玩具になる絶望と、商品としてしか扱われない彼女の命を。
剣を手にした少年は救出へと向かうが、既に少女は穢されて自我を砕かれた後。
重い刃は彼女の上に振り下ろされた……

乾いた激しさの旋律で綴られる、悲劇と云うにはあまりに無情な物語。
そして其れは、此の街のように。



「ガーベラ、此の歌嫌いなの?」

不安げに首を傾げられて、知らぬ間に苦い顔になっていた事に気付かされる。
歌で揺り起こされた先程の感情が再び頭を擡げたのだ。
ガーベラは振り払ったつもりだったが、次に出た言葉は既に滑り落ちていた。


「ねぇ……アイヴィだったら、如何してた?」


こんな事言うつもりじゃなかったのに。
無意識だった問いかけは自分の本音だろうかと、口にしてから思う。
突然で困らせたりはしなかったか。
しかし、何でもない、と取り消す必要は無かった。



「最初に遭った時に掻っ攫って、逃げたよ。」

思案する間は短く、いつもの変わらぬ笑み。
言葉の力強さに何かが解けた気がした。



自分が考えていた事と彼の言った事。
最奥の場所で触れ合って、絡んで、結び付く。
違う物の筈、なのに。
其処から生まれる波紋に心が震える。
頬が濡れたのを感じても欠伸する真似も忘れていた。
そんな程度じゃ誤魔化せない。


「如何かした?」


訊ねる振りをしても応えを求めている訳ではない。
燻っていた思惑など知らない筈なのに何故、一番欲しい物が解るのだろう。
あやすように背中を抱かれて、大人しく収まった。

立場は逆になったとしても昔から幾度となく繰り返してきた行為。
子供の頃ならば、こうする事に理由なんて要らなかったのに。
時間と共に意味は変わって、だけどいつでも安堵を齎す。
確かに自分は生まれてきたと云う事。
止まない雨音も、今は遠く。


此処が暗闇ならば、とうに自分の姿など見失っていただろう。
されど光は確かに存在するのだ、此処に。
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2012.02.03