林檎に牙を:全5種類
小さく寝返りを打ち、毛布に包まった背中を此方へ向ける。
柔らかいソファーに身を沈ませ、深く静かな寝息で上下する肩。

閉じられた瞼があまりに無防備で、思わず眉根を寄せる。


此処、私の家なんですけど?

声にはせず、リンファは視線だけをクロスに投げた。
眠る男から返事などある訳は無く、黒い髪が頬に零れたのも気のせいだったようだ。




仕事以外で此処へ訪ねて来るのは珍しい事でもないが、本当に突然。
少し寝かせてくれ、と言ったきり語らぬ唇を引き結んでソファーに転がった。
纏う空気に疲れきった色は濃く、心なしか髭もいつもより伸びた顔。
今にも倒れそうな、
少なくともリンファにはそう見えた。

承諾すら待たず、訳を聞く前に寝入ってしまったので仕方ない、と溜息せざるを得ず。
買い物へ行かねばならなかったので、其の侭家を出てしまったのも仕方ない。
が、帰って来てからもまだ其処に居るとは思わなかった。


道に停まったままのクロスの車を見たのだろう、
ご近所の奥さんから「彼氏と一緒に」と大きなパンの袋を貰った。
否定するのも面倒だし、折角の心遣いなのでありがたく頂く。
それに、如何やらこの人の中では決定してしまっているらしい。
言っても聞かないので3回目で諦めた。




小柄なリンファなら脚の伸ばせる広いソファーだが、190cm近いクロスには狭い。
身体を丸めても、寝相が悪ければこうもゆっくりとは休めないだろう。


床へ放られた黒いコートの上に散乱した手袋、ネクタイ。
だけならばまだしも。
幾ら寝るからと云ってもシャツまで脱ぐだろうか、普通?

拾ってなんかやるもんか、と思うものの、邪魔だからと理由をつけて椅子へ掛けた。
これだけ世話焼いているのだから感謝してほしいものである。
我が侭の理由は単なる疲労ではなさそうだ。
聞かせてくれたっていいだろうに。
が、リンファにとっては問題は其れではない。



「……よくもまぁ、人の寝床で気持ち良さそうに……」

問題、と云うのはお気に入りの場所を獲られてしまった事であって。
ストーブもあるが、毛布を被って横になっているのが一番暖かい。
肌寒い時、大抵リンファはそうやって過ごす。


訊かない方が良い事もある、

其れをリンファは分かっていた。
クロスにとって干渉されたくない時は、今だと。


寒さのあまり、いっそ叩き起こしてやろうかと衝動に駆られたが、冷静に抑える。
気持ち良く眠っている人間を起こすと云う行為は懸命ではない。
リンファの中のルール一つ、
緊急の事態でもない限り、相手が目を覚ますまで気長に待つ事。

それに寝惚けや不機嫌とは恐ろしい、何をするやら判らない。
……現にリンファ自身がそうだし。



夕食のついでに熱いお茶でも淹れて温まるとしよう。
下へ行けばご立派な暖炉だってあるし。




行き着いた台所の食器棚、手に取った橙のカップを危うく落としそうになる。
射し込む夕陽と同じ其の色が、指先を芯まで凍りつかせて。

この時期は触れるもの全てが冷たい。
空気ですら、痛みを伴って肌を侵食してくる。
背伸びのつまさきを踏み留めて、氷の温度のカップをきゅっと握り直した。

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2012.02.03