林檎に牙を:全5種類
すっかり暖かくなった季節の陽射しが、窓から差し込んでいる。
手元の作業には此れくらいで充分だろう、
飽くまでも穏やかな陽光に、I字の剃刀は鋭く白い光を返した。

洗面所の古びた鏡は少々小さく、長身のクロスとは目線の位置が合わない。
腰を軽く屈めて覗き込めば、三十路の近い男が苦笑する。



娼売とは裏稼業、水人が相手に隙を見せる事は命取り。
しかし結局は客商売、優先するのは個人的な自尊心より信用や面子。

中には居るのだ、他人に威圧感を与えるクロスの風体に苦い顔をする者も。
其れが今日の客。
零細の彼の処には数少ない、贔屓にして貰っている富豪の家。
尤も、決してクロスの事ではなく人魚の方であるが。


髭を剃れ、と云うのもまぁ言われてしまったのだから仕方ない。
どうせ此の家に出向く時だけだ、
多少の事には目を瞑らねば水人などやってはいられぬ。



飛沫を跳ね上げて顔を洗うと冷たい水が目に痛い。
白い泡を頬に塗り、宛がった剃刀をゆっくりと滑らせていく。

普段から剣を腰に下げてはいるとは云えど、此れは扱いがまるで違う別物。
自分に使う物となれば尚更慎重にもなる。
角度を少しでも間違えれば、皮膚を破る事など造作も無い。

取り分け顎が難しい、
刃を当てているすぐ近くに在るのは、頚動脈。




「器用ねー、」


クロスの耳には慣れつつある幼い声が、背後から。
黒い髪が視界の端で揺れた気配。


「そうかねェ……?」
「うん、髭剃るのところって見るの初めてだし。」
「お前の親父は?」
「……薄かったもん。」


鏡の順番でも待っているのだろうか?
問い掛けはまだ在ったが、今はお喋りなんて余計なもの。

口を動かしながら剃っていたので軽い痛みが走った。
鏡で確認するものの血は出ていない、
大丈夫、如何やら切り裂くまではいかなかったようだ。



「ねぇ……今、私がアンタの背中押したら、如何なると思う?」


「……あァ?」


半開きの口から発した声は間の抜けたもの。
届いた言葉を解釈すれば、行き着くのは如何やっても穏やかではない。
手を動かしながらも眉を顰め、目の前に映る世界を改めて見た。


右耳にピアスをした子供は、感情の読めない声で続ける。
左手に刃物を持った男を、真っ直ぐ見据えて。



「少なくとも傷を付ける事くらいは出来る。悪くて、は言わなくても判るわね。」

「そりゃ聞いただけで痛ェな……そんな事して、お前に利点はあンのか?」

「だって、有る?私がアンタを憎んでない保証なんて。」



あぁ、そう、全く其の通りだろう。


クロスの後ろに居るのは何も知らぬただの子供じゃない、
自分に逢ってしまってから、人魚と云う穢れた面を持ったのだ。
此れが終われば、贅を尽くした屋敷へ向かう。
男の相手をする為に。

だが、未だ昂ぶった欲望を最奥に受け入れていない処女。
まだ引き返す事は、出来る。



「凶器持ってるのはアンタだもんね、それとも反撃する?」

挑戦的な言葉に色濃く絡む残酷。
そんなものは必要ない。


「……お前は押さねェよ。」
「あら、どうして?」


「自分で選んだンだろ、俺に連れてけって。」


振り向いて、左耳にピアスをした子供に言う。
幻影ではなく、本物の。

そっと伸ばされた、白く細すぎる指先が触れてくる。
下がった手に握られたままの剃刀を外す、
二人のどちらからも届かぬ洗面台に放られ、刃の冷たい音を響かせた。

もう一方はクロスの首筋に。
かろうじて、で届く頬を撫でて、顎の髭を摘んだ。



「剃り残しはみっともないわよ、クロ。」

「誰の所為だよ……」



それでも少しだけ安堵していた。
彼女だけが使う此の呼び名で、自分を捉えた事に。
奇妙なむず痒さは、微笑ったリンファの前で溶け去った。
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2012.02.03