林檎に牙を:全5種類
この街で夜に一人で出掛ける事は、安全を保障できない。
只でさえ治安のあまり良くないと云うのに、闇に染まれば荒れるのは当然。
普通の住民は窮屈だと溜息を吐くが、大人しく従うしかなく。


あまりにも鮮烈な橙色に目を細めた。
石畳の坂に伸びるのは、荷物を持ち直したリンファの影。

煉瓦の建物の間で引っ掛かっている太陽は、西。



出掛けようと思って、その前に一眠りしたのが良くなかった。
起きた頃に午後を回ってしまっていたのは迂闊だ。
今は秋の真ん中、昼だって少しずつ短くなっていると云うのに。

本来なら人魚になる刻だが今日は一人。
今日は暖かいし、此の先買い物できる日は暫く無いのだ。
それに夜など何ともない。
自分がしたいようにやるのが信条、今までだってそうしてきたもの。

ただ、思い出すべきでなかった。
フレグランスが切れ掛けている事など。


「あ、」


扉を開いて一歩、踏み入れた店にリンファの声が落ちた。
見間違える訳が無い。
ドアベルに反応した、青い髪色。

「何で向き変えようとするんですか。」
「……別に。」


靴の爪先を逆方向へ向けたところで、声に捕らわれた。
やはりもう遅いか。
思わず応えてしまったリンファは苦く乾いた返事。



対面するのは一ヶ月ぶりだろうか。


あれからずっと口を閉じて忘れた振りをしていた、あの時の感情と感触。
が、記憶の片鱗だけで鈍い頭痛でも起きそうである。
感覚までは消せないのだ。

夜は怖くなどない。
事後で毒気を抜かれてしまったので、カルロも怖くない。
如何と云う事は無い、と人魚として見切りをつけたつもりである。
だが、顔を合わせたところで如何接して良いのか。
リンファの中に靄を残している。


「嫌だなぁ、眉間に皺寄せるとモルダーさんみたいになりますよ?」
「冗談でもやめてよね。」

訝しげな目のままで睨まれて、カルロは極上に笑んだ。

話題に上がった腹黒男は今頃、他の人魚と船人の相手に追われ仕事中。
そうでなければ車で楽に買い物できたのにと思う。
強面の水人も、リンファは運転手くらいにしか考えていない。


そう云えば、仕事の時間なのは彼も同じではなかっただろうか。
他にも疑問は在ったのだが、質問は一つに絞る。

「ちょっと抜け出してきたんです、部屋で計算だけって暇で。」
「あぁ、そう。」
「本だけの予定だったんですけど、此処のジュエリー欲しくなってv」
「……あんた、今度こそ殴っていい?」


『此処』は一般市民が思いつきで手に取れるような値の商品は少ない。
よくこんな貧富の差の激しい国で、そんな事が言えたものだ。
否、だからこそであろう。
同じ額の金であっても、此方と向こうでは使い方も価値も違うのだ。
娼館経営は其れほどに儲かるのだろうか。

「おや、リンファさんだって来てるじゃないですか。」
「違うわよ。此処に来たかった、じゃなくて此処じゃないと無いの。」


そう言い、真っ直ぐと向かったフレグランスの棚。
肩を並べている華やかな瓶たち、
封じられた香りを色も形も様々に、視覚でイメージさせる。
リンファの指先が伸びたのは、浅葱色のガラス瓶。
迷う事無く。

これほど沢山の中では紛れてしまうような、儚げな印象を持つ。
東洋の言葉で「鈴姫」の文字だけ。

「別の店はこんな遠くの国の輸入物まで扱ってないもの。」
「へぇ、リンファさん他のじゃ駄目なんですね。」
「そうね……拘りよ、私なりの。」
「なるほど。僕もありますよ、えーと……あぁ、此れです。」


棚の中から四角い瓶を拾い上げる。
ガラスの中に閉じ込められているのは綺麗な緑。

細いキャップ部分、ラベル代わりに黒いリボンが巻かれている。
「Silent Forest」と金の刺繍で。
辺りの音を飲み込んでしまうような、冷たく透き通った翡翠色。
手の中で瓶が揺れて水面にするりと光が泳ぐ。
澄んでいるのに、底を見せない。


そして不意に立ち昇る芳香。

瓶からではなく、隣に居る男から柔らかく。
例の感覚にリンファは頬を撫でられた気がしたが、気丈に突き放した。
香りの呪縛とは思ったよりも深い。


まともに相手してる事自体が間違っているのかもしれない。
こんな事はきっと茶番なのだろう。
何処かで悩んでいた気付き、ますます馬鹿馬鹿しくなってきた。



それぞれ会計を済ませて店の外へ。
荷物を持ってもらうと、妙な気分だが何故か自然に礼が言えた。
リンファには少々重かった袋を下げた手は、軽々と。
女性のような艶を纏っていても其処はやはり男性であろう。

しかし、此れは本当の予想外。

代わりに、先程のジュエリーをリンファの手に握らせる。
幾つか購入していた中、ラピスラズリの粒をあしらったピアス。

「付けてみたいんですが、少々お手を貸してくれます?」
「自分でやりなさいよ。」
「鏡持ってませんし、両手が塞がってますのでv」
「あら、別のとこに刺すかもしれないわよ?」
「構いませんけど。」


言われてしまっては返す言葉を失う。
其の場で屈んでもらって、縮んだ身長差と近付いた顔。
今初めて気付いたのだが、確かに両の耳朶には小さな穴が在った。
手早く済ませる。

通し終えたピアスは、まるで彼の身体の一部のようにも見えた。
瑠璃色に近い髪に溶け込み、薄暮時の中では光も淡い。


「あんまり目立たないわね。」
「ええ、でもさり気無い方が好きなんですv」
「でも安くはないでしょ、そんなに儲かってるなら何か奢って欲しいわー、」
「良いですよ。何食べたいですか?」


思わず口を押さえるが、滑ってしまった物は取り消せない。
今日で二度目の後悔。
餌付けに弱い事など、微笑んでいる彼はとうに心得ているのだろう。
冗談だ、と返すにはタイミングが悪く。

選択肢を作ってしまったのは彼女自身だ。



久々に外での夕飯はとても美味しかったが、気分な複雑で愉しめたとは言えまい。
その後、街の端まで送ってくれた彼から擦り抜け家路を駆けた。
手にも触れさせないうちに。
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2012.02.03