林檎に牙を:全5種類
幾度目かの仕事は如何と云う事も無かった。
ふらりと浴室で浴びた湯、流したものはリンファの汗だけではない。
顔を顰めたように皺の寄ったシーツの上には、子供の服。

見知らぬ老人の前で脱いで、見られて、触られるだけで終わり。
また呼ばれたとしても、枯れた身体では此れ以上の要求は無いだろう。
ただ、舌先に残ったままの他人の唾液の味が気分悪い。
本当に其れだけだった。


客は金を払って早々に帰り、部屋にはリンファ一人。
酷く現実味の無い時間には慣れてしまった。
熱も感触も其処にあるのに何処か遠く、心に波を立てる事は何も在りはしない。
確かに裸なのに、水も空気も通さない何かで頭から爪先まで包まれているような気分。
いっそ夢での出来事の方がリアルかもしれないとさえ思う。

そう考えれば、自分が此処に存在している実感さえ危うくなる。
痛みを与えられる段階に来ていない所為だけだろうか。


服を纏い直して窓を開ければ白い冷気。
生温い部屋の空気は冴えて、吹き付けた風が濡れたままの髪を撫でる。

昨夜の雨は寒さで雪へ、朝には止んだが足元が見えないほど降り積もった。
初めて来た時と同じ真白の街。
黒いコートの男に逢ってから、既に新しい月が始まっていた。
お陰で寝る場所や食べる物に困る事は無くなり、其の他にも得た物は大きい。


何も失ってなどいない、
何も持っていなかったのだから当然。
だけど、正体の解らない靄は胸の中で広がり続ける。



桟の向こうへ唾を吐き捨てたが、一度くらいでは治まらない。
しゃく、と雪を噛んだ。

当然だが味なんてものは無い、ただ無機質に冷たい。
指先も口腔と同じく、巡っていた体温は白に凍えて痛みにさえ変わる。
自分の身体の一部だと云うのに、痺れてしまうと動こうとする意志にも鈍くなる。

こうして感覚が麻痺していくのだろうか。



「そこの可愛いお嬢さーん、俺と雪遊びでもしないかい?」

「……遠慮しとくわ。」


眩しいほど色を持たない窓の外、鮮烈な赤に目を灼かれた。
片手で芝居掛かった仕草でさらり掻き上げた髪は深紅。
否、赤いのは寒さで頬も同じか。
間抜けた声に、虚ろな気分は物の見事がらり壊れた。

先程から視界の端で雪掻きをしていた此の男は宿の従業員であろう、
羽織ったジャケットの下でも判る制服姿。
残念、冗談で軽々飛ばす赤毛の男は警戒心の欠片も起こさせはしない。
少年のように明度が強い笑み。



「んーと、君はー……モルダーが連れて来た子だっけ。」
「クロ?」
「あー、あいつ面っ白い呼び方されてんねぇ。そうそ、お嬢さんお名前は?」
「リンファ、だけど……」
「リンリンかー。」
「リンファよ。……クロの知り合い?」
「そそ、マブダチー。俺はセルカーク・バノックっつーの。」


深い意味は解らなかったが、如何やらクロスとは親しい間柄らしい。
でなければ、連れ込み宿などと云う場所に子供が居る事を不思議に思わぬ筈が無く。
それでも実のところ、リンファは半信半疑だったのだけれど。
無口で苦い顔つきのクロスとは違いが大き過ぎて俄かには信じがたい。

それとも、正反対の属性の方が息が合うのだろうか。
ミオと云う前例も在るのだし。




「帰る支度くれェしとけって言ったろう。」


紙にインクが零れ落ちたような漆黒。
コートの裾を雪で濡らし、不意にクロスがバノックの後ろから顔を出した。

「よ、ちわっす、モルダー♪」
「あァ……話の途中悪ィが、うちの新米人魚迎えに来た。」
「ちょっと待った待った!」
「……何だバノック、」


きゅっと両手で丁寧に握った雪の塊一つ、
探って選んだポケットの中身を装飾する指先、
それからリンファへと差し出し、


「この子をあげよう、生まれたてほやっほやなウサギのベイビー。」
「別に……要らない、」
「抱かれない赤ちゃんは笑わなくなるんだぞー、ちゃんと抱っこ!」
「聞いてる?」

ぴんと立った白い耳は挿した煙草2本。
身体の割りに大きな目はチョコレートの粒、リンファをじっと。

其れを雪ウサギと呼ぶのには、あまりに珍妙で口を開くのさえも迷う。
甘い褐色の眼球と見詰め合ったまま暫し無言。
葉の耳と南天の目ならば可愛らしく生まれた筈なのだが。

「じゃあなー、リンリン。」
「……もうリンリンで良いわ。」


胸に抱くのは雪ウサギ。


どれだけ歪な姿でもウサギはウサギでしかない。
耳が有害物質でも目が赤くなくとも、
其れは否定の理由になど成り得はしない、問題ではないのだ。


「チョコだけでも良かったのに。」
「お前、人から物貰っといてケチつけンなよ……」



きっと此処は地獄の一丁目。
だけど、居心地はそれほど悪くはないと思う。
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2012.02.03