林檎に牙を:全5種類
人の詰まった列車から押し出されるように靴の爪先が石畳を叩いた。
暖かな車内はカルロには少し名残惜しいものの、そうも言っていられない。
ホームを射る笛の音を背にして欠伸を噛み殺す。


流れに乗って駅前広場へ出れば、固まっていた人込みは散り散りになっていく。
誰かの鞄に当たり、よろけた体勢を直すと夜気に頬を撫でられた。
既に日は暮れてしまっている。
出発したのは夜明け前、濃い藍色の空は同じ。
先程まで席で居眠りしていた所為もあって一日が戻ったような錯覚。

まぁ、足早に帰っても意味は無さそうだ。
もう今日はどうせベッドで休むだけなのである。
重さに慣れてしまった鞄を手に、田舎道をだらだらと行く。


わざわざそんな早い時間に家を出たのは、旅行や遊びではない。
別の街の娼館へ出向くにも列車を乗り継いで数時間。
仕事以外に理由は無いのだ、カルロにとっては。

「我ながら寂しいですねぇ……」

苦い言葉と笑み一つ。
商談は無事に済んだと云うのに表情は浮かず。
自分の人生には娼売だけしか無い。

其れを実感してしまった瞬間は、もう何度目だろうか。
後悔している訳ではないのに。

他に出来る事など何も無いのだから仕方ないとも思う。
何処で捩れたのかと考えるのはとうに飽きていた。
其れを言えば、自分の生まれた事自体が捩れだとも答えは出る。



ファントムグレーのシャツは列車の中で胸元を緩めたまま。
肌を撫でた夜風の冷たさが考え事を中断させた。
そう云えば、人込みに揉まれた所為でベージュの上着にも皺。

何故こんな事ばかり考えているのか、

不意に気付いて理由を探れば、「4月だから」だと解答に尽きる。
カルロにとって春はあまり喜べない。

決まって何となく気持ちが重くなり、溜息が多くなる季節。
望みもしないのに古い感情や傷が顔を出すのだ。
暖かく優しい暦であればこそ、か。
どれだけ仕事で残酷になれても春には少し負けそうになる。
なるべく考え事をしたくなくて、ベッドに潜る時間もまた多い。

酒でも呑んで帰ろうか、
酔えもしない癖にせめてもの足掻き。
柔らかな空気の中、独り憂鬱を抱えるのは息苦しい。



駅前には小さな酒場も在ったのだが、思い立ったのが遅かった。
歩いただけ距離は開けて、今は何も無い場所。
引き返すのも面倒だ。
結局、歓楽街へと抜ける道を探して緩やかな坂を登る。


「…………あぁ、」


不意に開けた視界に思わず足が止まった。

坂の上、見渡す限りまでに続くのは、夜を彩る絢爛たる桜並木。



月は細く尖って夜の帳に引っ掛かったまま。
消えそうな儚い光を浴びて、薄紅色の花は冷たい白になる。
伸ばした枝を揺らすほど咲き誇る桜、
さらり零れて、雪のように柔らかく降り注ぐ。
此処には音など何も無い。
髪を擦り抜けた花びらは夜風に攫われ、何処かへ消えて行く。
春は苦手でも、桜は嫌いじゃない。

樹の間に立って見上げれば、桜で埋まった枝が星の散らばる夜空を抱く。
それこそ噎せ返りそうな程に。
闇の静けささえも吸い込んで浮かび上がる花。


月光に濡れた漆黒と、茫洋とした真白のコントラスト。

艶やかな髪と薄い肌の色、イメージは一瞬にして重なる。
連なるように鼻先に絡んだ鈴姫の香り。
揺すり起こされた記憶は欠片でもあまりに鮮やかで、感触までも。


此れを「愛」だと甘くて柔らかな言葉で呼べば形には成るだろう。
だが、其れはしない。
好き嫌いだけではとても表現など出来はしない感情。
誘う香りは甘くとも、粘りつくように濃密で不快ではない苦さ。
そして、もっと欲しくなって手を伸ばす。


幼い人魚なら自分の娼館にだって居る。

柔軟に見えても確かに息づく、硬質な自我。
其処に惹かれた。

次いつ逢える?

想うたび、鼓動の加速は年を重ねても変わらず。
高揚の心地良さに瞼を閉じて浮かべる彼女は、笑顔ではない。
困ったような、意地になっているような、他の誰にも見せはしない表情。
其処から駆られる興味と、情欲。


「発情期?春ですからねv」

邪気を以って吊り上がる、三日月の唇。
濡れた笑い声は返す者も居らず、闇へと溶けた。
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2012.02.03