林檎に牙を:全5種類
どれだけ街中で顔や名を知るものが増えたところで、誰も彼女達の昔を知らない。
名前と歳と誕生日、引き結んだ唇が解いたのは数える程度。

其れだって偽ろうと思えば幾らでも出来る。
目に映る姿さえも、本来のままではないのかもしれない。
髪だって染めれば自在に色を変えるし、何よりも女とは化ける生き物。
紫の瞳はいつだって無言。


「……ジュリアンにも、分からない。」

瞼を伏せて、ベティを抱くジュリアンの手に力が篭もる。
白い頬に落ちた睫毛の影が、問い質したアイヴィの口を閉ざした。
触れるべきではなかったか……
此の街で初めて出来た友達の様子は、少々尋常ではない。

「お店で働く前の記憶……、無いから。」
「え?」

付き合いは短くなかったのに、近しかったのに、全くの初耳。
ジュリアンの呟きが齎した衝撃は大きい。
思わずアイヴィが立ち上がった拍子、腰掛けていた椅子が鳴った。
目線を外したままで彼女は尚も続ける。

「道に落ちていたベティを助けようとして車に撥ねられて……
奇跡的に無傷だったんだけど……それで、記憶無くしちゃったみたい。」
「ごめん、俺、そんな大変な事だったなんて知らないで……!」
「でも……一つだけ憶えてる言葉があるの。」
「う、うん、何?」



<ウッソー♪>



思考は真っ白、瞬きを繰り返すばかり。
からかっていただけだと理解するまでに、五秒経過。


「ちょ、ジュリアン、俺マジに心配したのに今ぁッ!」
「アイヴィ、騙されやすすぎ。」
<そんな事じゃ、詐欺に遭って泣き濡れる毎日を送る事になるわよっ!>

ベティにまで畳み掛けられては怒る気にもなれず。
立ったついでだ、お茶でも淹れて来ようか。

「……コーヒーで良い?」
「ホットミルク。」
<蜂蜜入れてね!>


あぁそうだ、此の程度の嘘など愛情表現の内だった、忘れていた。
ジュリアンも自分を友達だと思ってくれている証拠。
ならば、それでも構わないさ。
また凝りもせずに騙されるのだろうけど、多分ずっと。
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2012.01.28